《きれい》なんだもの……おまけにそんな美しい心を持ってれば、誰だって貴方が好きになる……」
「わたし……なんか……誰にも、好かれやしませんわ……」
「だって……だって……僕は……僕は……貴方が好きだもの……」
「まあ! 貴方が? 貴方が……? ほんとうに?」
真っ赤になってうなずいた私を見ると、円《つぶら》にみはった眸《め》の中から大粒な涙が、転《ころ》がり出たと思った次の瞬間、身を翻してスパセニアはたちまち脱兎《だっと》のごとく、階下へ駈け降りていってしまいました。そしていったかと思うと、気が違ったようにピアノの鍵盤《けんばん》が、鳴り出して……。
「いらっしゃいよう、いらっしゃいよう……早く、降りていらっしゃいよう! マズルカ弾いてますのよう! 踊りましょう」
と、狂ったような彼女の声が、響いてきたのです。その声を聞きながら、顔を赧《あか》らめながら私は、階段の上り口に茫然《ぼうぜん》として突っ立っていました。もう一度くり返しますけれど、スパセニアに向って私のいったことは、みんなほんとうのことなのです。決して心にもないことを、いったわけではありません。
が、それでも何だか、スパセニアを釣《つ》ったような気がして、悪いことでもいったような気がして、しばらく私はぼんやりと突っ立っていました。もう手紙を続ける気もしなければ……さりとて彼女を追って行くだけの勇気はなく……と、申上げましたら、先生、貴方は私を、なんて情熱のない、老人《としより》臭い引っ込み思案な男だろう! と、お思いになるかも知れません。そして、そのとおりなのです。
ですからその時も、私自身、そう思いました。こんなに熱情は、私のからだの中を駈けめぐりながら、なぜもう一歩というところで私には、男らしく踏み込む気力が、ないのだろうか? そのただ老人臭く、自制心ばかりが湧《わ》いてきて! おそらくそれは、私の親が私のこととなると人一倍ヤカマシクてユーゴのどんな名流であろうとも、九州の片田舎に住む混血児《あいのこ》の娘との結婚なぞを、許してくれるはずがないという諦《あきら》めが、私の心のどこかに巣食っていたからかも知れません。それ以上の無責任なことをいって、相手を不幸に陥れまいとするばかりの警戒心が、絶えず私の心の中一杯に、とぐろを巻いていたせいかも知れません。ともかく小さい時から親に可愛《かわい》がられ抜いて、我儘《わがまま》なくせに人一倍気が弱くて優柔不断な私には、もうそれ以上に踏み出すことが、どうしてもできなかったのです。そのくせ、自分ながら物足らぬ自分の性格に腹が立って、ぼんやりと突っ立っていたのです。
そして私は一体、スパセニアが好きなのかジーナの方が好きなのか? またもやわからなくなってきましたが、今思えばもしあの時、もっともっと突っ込んで、私が自分の意志を表明してさえいたら、あるいはこんな惨劇も起らなかったのではなかろうか、という気がしてなりません。それを考えて、すべてのことは、みんな私自身の煮え切らぬ性格から招いた罪のような気がして悔まれてならないのです。
と病人は昔のことを思い出したのか、苦しげに言葉を切った。
「お疲れならば、しばらくお休みになったらどうですか?」と私は勧めた。
「また後で伺った方が、よくありませんか?」
「いいえ、かまわないのです、どうせ同じことですから」と、病人はいった。
「じゃ、ちょっと、枕の具合だけ、直してもらいますから。……松下さん、ここを……」
看護婦が、枕の具合を直す。
「ともかくそういうわけで……」
と病人はまたボソボソと、話し始めた。
「私には、ジーナにも突っ込んだことがいえなければ、スパセニアにもそれ以上のことが、何にもいえなかったのです。ですからジーナもスパセニアも、あるいは私の態度が不満だったかも知れませんが、しかしその時は別段そういう素振りも見えませんでした。
そして私だけのつもりでは、姉妹《きょうだい》と相変らず楽しい日を送っていたつもりでしたが、そうしてまたも四日ばかりもうかうかと送って、私がこの家へ来てから都合十三日ばかりも、日がたった頃のことのように思われます。
その時分に、大野木までいった水番の六蔵が、父からの手紙を齎《もたら》してきました。スグに帰って来いという文面です。ほんの七、八日、長くても十日ぐらいのつもりで家を出て、母も心配し切っているし、そうそう学校を休んで遊んでいるというのも、ふだんのお前にも似合《につか》わしからぬこと。ともかくこの手紙を見次第、スグに帰って来い。もし何だったらこちらから、迎えを出してもいい。お前の御世話になっている石橋さんというお宅へは、ほんの心ばかりの品をお送りしておいた。よろしくお礼をいって、スグに帰って来なさい。
という手紙です。私は父や母
前へ
次へ
全50ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
橘 外男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング