海へ眸《め》を投げていました。その恍惚《うっとり》と眺めている、キリッと引き締まった横顔や恰好《かっこう》のいい鼻、愛らしく結んだ唇なぞを眺めているうちに……クッキリと盛り上がった胸や柔らかな腰の線に見惚《みと》れて思わず手紙を書く手をやすめてしまいました。ふと気が付いてスパセニアは、振り返ってにっこりと靨《えくぼ》をうかべましたが、欄干《てすり》にからだを凭《もた》せて、悪戯《いたずら》っぽそうに、聞いてくるのです。
「覚えていらっしゃる? こないだ溝渠《インクライン》を見にいらした時に、……わたし、ほら! 六蔵を探しにいったことがあったでしょう?」
「……そう……」と私はうなずきました。
「岸に腰かけて……木の幹に腰かけて、ジーナと随分長いこと、話してらっしゃったわね? ……何のお話、なさってらしたの?」
「何の話ってことも、ないですけれど……」
 あの時、もうちょっとのことで、ジーナの手を握りかかったことを思い出して、私は赧《あか》くなりました。
「貴方《あなた》は、知ってたんですか……?」
「どうしても六蔵が見つからないから、諦《あきら》めて戻ろうとしたら、お話してらっしゃったでしょう? ですからわたし……お邪魔しちゃ悪いと思って、もう一遍六蔵を探しにいきましたの。ジーナと仲よく話してらっしゃるの、わたし、うれしかったから……もっと、話してらっしゃればいいって思って……」
「……別段……どうっていう話でもないけれど……貴方たちがユーゴから帰っていらした時のことや、長崎にいらした時分の話を聞いてたんです……」
「…………」
 しばらくしてから、
「ジーナお好き?」と聞いてくるのです。
「そりゃ、僕……好きですよ……」
「ジーナも、仲よくして上げてね。ジーナは優しいいい人ですわ。誰にでも親切で、素直で……パパにも孝行で……よくできるのよ、学校なんか、いつも一番でしたわ……ピアノも上手ですし……ジーナのピアノ、お聞きになったことある?」
「いいえ……まだ……」
「じゃ、帰って来たら、聞いて御覧なさい……とても上手よ」
「貴方は……?」
「わたしは駄目なの、何にもできやしませんわ……」
 私の方へ横顔を向けて、後は独語《ひとりごと》のように、「わたしは、優しくもないし……親切でもないし……戦争で滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になって、学校も何も止《や》めてしまったし……」
 オホホホホ、と今にも笑い出しそうに、悪戯《いたずら》っぽそうな声でしたけれど、その悪戯っぽい声の中に何か妙に、淋《さび》しさが籠《こも》っているような気がしました。
「……ジーナも、仲よくして上げてね……わたし、ジーナを幸福《しあわせ》にして上げたいの……学校も何も止めたのに、わたし本が読めるようになったの、みんなジーナのお陰ですわ。……ジーナの恩は、一生忘れませんわ……ジーナと、仲よくして頂戴《ちょうだい》ね……」
「僕のできることは、何でもしますけれど……でも……僕は貴方も、好きだな……貴方のような方も、大好きだな……」
 これはほんとうです。決して、ウソをいったのではありません。優しいジーナも好きですけれど、わたしは駄目、何にもできないのといってるくせによくできるという、勝気のどこかに淋しげなところのあるスパセニアも、ジーナに負けず劣らず好きなのです。
 いつかジーナのいったことを、思い出しました。日本文字はジーナよりもっと読めないけれど、頭がよくて本国語や仏蘭西《フランス》語ならば、今ではどんなムズカシイ本でも読みこなせて……そして作曲も馬の調教にもすばらしい天分を持って……もう今からでは遅いけれど、あれだけのすぐれた天分があったのに、戦争でこんな辺鄙《へんぴ》なところに引っ込んで、才能を磨かせられなかったのが残念ですわ……ほんとうに残念ですわと、いつかジーナのいったことを思い出したのです。
 しかもそれをいうとかえってスパセニアの方が、ジーナを慰めてくれるというのです。ピアノやヴァイオリンの奏法なら独学ではできないかも知れないけれど、作曲なら独学だって、山の中に住んでたって、できるわ。べートゥヴェンは聾《つんぼ》になっても、作曲したわ。バヴロヴィッツは盲目《めくら》で作曲家になったわ、わたしもなるわ……ひとりで勉強して山の中で作曲家になってみせるわ……。
 バヴロヴィッツというのは、ユーゴ一といわれる作曲家だそうです。海風に髪を嬲《なぶ》らせている、繊《ほ》っそりとしたスパセニアの姿を眺めているうちに、私は勝気なくせに淋しそうな娘の、美しいからだを力一杯抱き締めてやりたいような、またいつかのジーナに対するような熱情を感じました。
「ピアノができなくたって、学校なんかできなくたって、いいじゃありませんか、かまわないじゃありませんか! 貴方《あなた》は綺麗
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