言葉が口に出てこなくて、この瞬間ほど私は、彼女を抱いてその孤独な魂を慰めてやりたいと、思ったことはありませんでした。が、いくら同情しても、私のような学生の身の上では、どうすることもできぬ、相手の境遇です。いわんや、何度もいうとおり、運命に翻弄《ほんろう》されているとはいえ、決して彼女は現在貧乏な身の上ではありません。
「面白くもない話……おイヤだったでしょう?」
「お気の毒だと、思っています……何といったらいいかと、さっきから僕は考えていたところです」
 運命の打開を図って、今も山へ行っている父親のことでも彼女は、思いうかべているかも知れません。湖の向う側の、林の上に聳《そび》えている赭《あか》ちゃけた禿山《はげやま》に、じいっと彼女は、眼を留めているようです。長い睫毛《まつげ》の先が、濡《ぬ》れたようにそよいで、象牙《ぞうげ》彫りのようにキメのこまかな横顔……キラキラとした、亜麻色の髪……しかも、膝と膝が触れ合って、彼女の身体を流れている温かい血が、脈管へも皮膚へも、息苦しく伝わってきます。夢のように、しいんとした何分かが過ぎ去って、私はハッとして、手を引っ込めました。さっきから、もう、何度彼女の手に触れようとして、背《せな》へ手を回そうとして、そのたんびに胸を轟《とどろ》かせていたか、知れないのです。そしてこの時ほど私はスパセニアが帰って来なければいいと、思ったことはありません。
 からだ中が燃えるようにかっかとして、顔が火照《ほて》って頭が茫《ぼう》っとして、こうしていても躍り出したくなる無性に楽しいような気がしてきますけれど、それでいて彼女と膝が触れ合っていることが、また堪えられなく全身をムズ痒《がゆ》くさせてくるような……この時ほどスパセニアが帰って来てくれなければいいと、肚《はら》の中で思っていたことはないのです。
「お差し支えなかったら……もっと、遊んでらっしゃいません? こんな山の中ですから、面白いことなんぞ何にもありませんけれど……」
 艶《あで》やかな眸《め》が、にっこりとのぞきこんできます。
「スパセニアも、とても喜んでますし……パパも喜んでますのよ。ね、およろしいでしょう? もっと遊んでいって下さいません?」
「僕は……僕は……かまいませんけれど……でも……そんなに遊んでて、お宅に御迷惑じゃないでしょうか……?」喉《のど》が掠《かす》れて、他人が喋《しゃべ》っているような気がしました。
「迷惑どころじゃありませんわ……もう、わたくしたちみんな、楽しくて……このままお別れ、できないような気持ですわ。……初めていらした時から……初めていらした時から……わたし……いい方がいらして下さったと……」
「え?」
 と、私は耳を疑いました。途端に全身がかっとして、燃えるようにまたにっこりと赧《あか》らめているジーナの顔が、ぽうっと花の咲いたように眼の前に躍って、この瞬間ほど私は、自分を幸福だと思ったことはありません。そしてその瞬間、もし眼を向うの方へ走らせて、ハッとしなかったらおそらくあるいは、夢中で彼女のからだを引き寄せてしまったに、違いありません。
 が、瞬間私は、草原の中を疾風《はやて》のように馬を走らせて来る、スパセニアの姿を認めたのです。そしてびっくりして、突っ立ち上がりました。見果てぬ楽しい楽しい夢を、引き破られたような気がして、何ともいえぬ腹立たしさを感じました。
「お待ちどおさま、……随分手間どったでしょう? 六蔵ったら……いくら探しても、いないのよ、散々探して、大野木へいこうとしている途中まで追っ駈けてって、やっと連れて来たわ」
 とそこに、馬を立てているのです。
「ほら、あすこへ来るでしょう?」
 なるほど、湖の遥《はる》か東側に、草原の中を歩いて来る人の姿が見えます。スパセニアは家まで戻って、馬でその六蔵という男の行方を探し回っていたのでしょう、温かい陽《ひ》に蒸されて、上気したようにポウッと眼の縁が染まって、汗ばんだ髪がビッショリと、頬《ほお》についています。
「いらっしゃいよう! ……さ、今、水門をあけさせますから!」
 馬から降りたスパセニアを先立てて、私たちはまた草むらを水門の方へ向いました。が、今の私にはもう、そんな溝渠《インクライン》を見たいという願望なぞは、少しもありません。それよりも、もっともっとジーナと二人っ切りで、話していたくて……話ができなくても二人っ切りでただじいっと腰かけてたくて、スパセニアの後からついて行きながらも、ともすればシーナの手が握りたくて、からだが触れ合うたんびに、胸を轟《とどろ》かせていたのです。
 そして漠然とした未来を、取り留めもなく考えていました。私の父も母も、私がたった一人の息子ですから万事に干渉して、その五月蠅《うるさ》いこと、五月蠅いこと! 何
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