制止して下さらなかったら、僕は噛《か》み付かれたか知れませんね」
と、妹娘の脚の下に、長々と蹲《うずくま》っている巨大な犬を眺めながら、私は今更のように竦然《ぞっ》としました。
「どこで、生まれたんですか? 僕も、こういう奴を飼いたいな……こんな猛烈な奴を、まだ見たことがない」
私も、犬は嫌いではありません。家にも、シェパードが二匹います。世界で一番巨大な犬は、セントバーナードとグレートデーンだといわれています。セントバーナードは見たことがありませんが、この牛犬《クラブニ・ハウ》はまず、グレートデーンをもう一回り大きくして、逞《たくま》しくしたと思えば間違いありません。
「オシエックというところで、生まれましたの、クロアティアの」
「クロアティア?」
「ええ、クロアティアの……ユーゴ・スラヴィアの……」
という返事です。
「欧州のユーゴ・スラヴィア……? へえ! そんな遠いところから、お買いになったんですか?」
「買ったんではありませんの、持って来たんですわ。……わたしたち帰る時、一緒に連れて来ましたの、ですからもうお爺《じい》さんですわ……」
「じゃ、貴方《あなた》がたは、ユーゴ・スラヴィアに……? そんな遠いところに、お住いだったんですか?」
「ええ、日本へ帰るまで、ずっと向うにいましたの、向うで生まれたんですもの……ですからわたしたち、日本のどこも知りませんのよ」
だからペリッチという犬の名も、ユーゴ語だと教えてくれました。
これでいくらか謎《なぞ》が、私にも解けたような気がしたのです。ここへ足を入れた時から、何か違ってる違ってると思っていたのは、まったくその雰囲気の違いだったのかも知れません。東京で見慣れている、亜米利加《アメリカ》人の生活様式なぞとは、まったく異なっているのです。たとえば今私の座っている、この部屋の装飾一つでも、どっしりした彫刻の施してある、卓子《テーブル》一つでも……そして部屋の片隅に置いてある、大きな電気蓄音器でも。
たとえば、娘たちの手にしている紅茶茶碗にしても、それは私たちの使っている陶器の、茶碗ではありません。スッポリと洋杯《コップ》全体が嵌《はま》るような把手《とって》のついた、彫りのある銀金具の台がついているのです。そしてさっき私が家へはいる時に見た、厚い白壁作りの洋間も、何か外国の油絵でも見てるような感じだと思っていた原因が、今やっと腑《ふ》に落ちてきたのです。
東|欧羅巴《ヨーロッパ》のユーゴ・スラヴィアという、日本にも馴染《なじみ》のない国の建築だったのです。
さて、腹も張って他愛もない雑談を交えているうちに、昨夜|藪蚊《やぶか》に食われて碌々《ろくろく》眠ってない顔に、眩《まぶ》しい朝暾《あさひ》が当ってくると、堪《たま》らなく眠くなってきて……娘たちにも私の疲れているのが、わかるのでしょう、一眠りして行けと、勧めてくれるのです。
「父が、いってましたわ……途中で道が分れてますから、後で誰かにお送りさせるって……わかるところまでわたしたち、連れてって上げてもいいですわ、……一眠りしていらっしゃい!」
初めての家で、そんな迷惑までかけては済まないと思いましたけれど、こう眠くてはヤリキレマセン。ついでにこれも、好意を受けることにしました。
姉娘の導いてくれたのは、スグそこの階段を上った、二階の取っ付き部屋でした。緋《ひ》の絨毯《じゅうたん》を敷き詰めた洋間でありながら、ブェランダ紛《まが》いの広い縁側がついて、明け放した大きな硝子《ガラス》戸からは海や谷底を見下ろして、さっきよりもっと眺望のいい部屋でした。
部屋の真ん中には、真新しい敷布《シーツ》に掩《おお》われた大きな寝台《ベッド》が据えられて、高い天井や大きな家具、調度類……皺《しわ》くちゃになった襯衣《シャツ》のまま、横になるのが憚《はばか》られるような、豪華さでした。さて、そうして寝台に身を投げてはみましたが、その時の私の気持を、何といい現したらいいものでしょうか?
子供の頃に読んだ千一夜物語《アラビヤン・ナイト》の中には、バグダッドの町を彷徨《さまよ》い歩いた荷担《にかつ》ぎの話なぞがよく出ています。夕暗《ゆうやみ》の立ちこめた町の小路で、ふと行き摺《ず》りの美女に呼び留められて、入り込んだ邸《やしき》の中が眼の醒《さ》めるような宮殿で、山海の珍味でもてなされたような物語が、よく出てきます。その時の私の気持が、ちょうどその荷担《にかつ》ぎだったといったら、いいでしょうか?
今は午前中で、まだ黄昏《たそがれ》でもありませんし、またここがそれほどの宮殿とか、山海の珍味だとかいうのではありませんけれど、それでもなんだか狐《きつね》につままれたような、心地です。頭の芯《しん》がトロトロと微睡《まどろ》んで
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