のです。
 そのうちに、笑いながら妹娘と姉娘とが、縺《もつ》れ合って出て来ました。活発な妹娘が、父親に寄り添って何かいいますと、
「こんな山の中で、お口に合うようなものもありませんが、食事の仕度が整ったと申しておりますから、どうぞ!」
 と紳士は促しました。あんまり図々しいようですが、堪え難い空腹なのでこれも遠慮なく御馳走《ごちそう》になることにしました。娘たちの後からついていった部屋は廊下を鉤《かぎ》の手に回った奥の西洋間らしい階段の下の、スグ取っ付きの部屋でした。明け放した廊下からは、例の眼も絢《あや》な芝生が、一望遮るものもなく遥《はる》かの麓《ふもと》まで、なだらかに開けています。そして処々に一かたまりの五月《さつき》や躑躅《つつじ》が、真っ白、真っ赤な花をつけて、林を越して向うには、広々と群青《ぐんじょう》色の海の面が眺《なが》められます。
 ここが食堂なのでしょう、清潔な卓布をかけた長方形の卓子《テーブル》が据《しつら》えられて、短いカーテンに掩《おお》われた食器棚や、戸棚や……そよそよと芝生を撫《な》でて来る柔らかな風がそのカーテンの裾《すそ》をなぶって、椅子《いす》に凭《もた》れていると、恍惚《うっとり》と眠けを催すほど、長閑《のどか》な気持になってきます。そして、美しい娘二人の並べてくれたこの食事の、どんなに美味なことだったでしょう。
「生憎《あいにく》今日は、御飯を炊いてませんのよ、お口に合いますまいけれど、どうぞ!」
 と妹の勧めてくれるおいしい裸麦《ライむぎ》の麺麭《パン》や、カルパス、半熟卵、チーズだとか果物、さっきのような強《きつ》い珈琲《コーヒー》……どんなに生き返ったような気がしたか、遠くの海を眺《なが》めながら、そして庭の緑に眼を放ちながら、麺麭をちぎり卵を抄《すく》い……私が饑《う》えを満たしている間、娘二人は両端に座を占めて、紅茶を飲みながら久しぶりの客をもの珍しそうに、東京の話、私の通って来た雲仙《うんぜん》からの道中、登って来た山々の話なぞ、それからそれと話し合っていました。なるほど私の想像していたとおり、同じような顔立ちながら、姉の方は無口とみえて恍惚《うっとり》と細目に眸《め》を開いて、ただ夢のようにほほえんでいるばかり、私の相手は妹に任せている風でした。
 そして、今でも覚えているのは、この眺めている海には一艘《いっそう》の船もなく、船どころか! 見える限りの景色のどこにも、また家の中にもこれ以上の人はいないように思われます。あんまり寂寞《せきばく》過ぎて、なんだかそれが私には、不思議でなりません。ですから飽きずにそんな質問ばかり、繰り返していたような気がします。初めのうちは、酔興でどこかこの辺の都会地の人が別荘でも構えているのか? と思いましたが……。
「こんな山の中に、こんな立派な家を構えて……お父様でも貴方《あなた》がたでも、そんな綺麗《きれい》にしてらっしゃって……」
 と、私はもう一度、格天井《ごうてんじょう》に眼を放ちました。
「実際不思議です、僕にはそれが、不思議でならない……どこを見ても、誰一人人はいやしないし……なぜ、こんな淋《さび》しいところに、住んでらっしゃるんですか?」
「だって、父がここが好きで、住んでるんですもの、仕方ありませんわ」
 と姉娘が笑い出しました。
「淋しくないんですか?」
 ちっとも! という返事です。
「わたしたちもう七年も、ここに住んでますけれど、淋しいなんて感じたことなんか、ありませんわ」
「へえ!」
 と私は、感心しました。
「よく、淋しくないもんですね! 僕なんか意気地がなくて、とても住んでられやしない……」
「ペリッがいますわ! ペリッがいれば、もう怖《こわ》い人が十人くらいかたまって来たって、何ともありゃしませんわ。夜だって、見回ってくれますし……わたしたち碌々《ろくろく》、戸締りなんかしたこともありませんのよ」
 と妹娘が眼をクリクリさせて、口をはさみました。ペリッというのは、犬の名前なのです。そして私たちの話は自然、犬のことに移りました。ペリッは生まれた国では、牛犬《クラブニ・ハウ》といって、この犬一匹いれば猛牛二頭を倒すと、昔からいわれているのだそうでした。元々はコリー同様、牧羊犬なのだそうですが、今ではもっぱら番犬として珍重されて……しかし、原産地地方でも今では数が尠《すくな》くて、ほんとうの牛犬《クラブニ・ハウ》はそう沢山にはいないというのです。
 が、今いるのは生粋《きっすい》の牛犬《クラブニ・ハウ》だと教えてくれました。ついこの一月までは、雌雄《しゆう》番《つがい》でいたけれど、心臓《フィラリア》を患って今では雄一匹になってしまったのだと、仲好しらしい妹娘の方が残念そうにそういうのです。
「じゃ、さっき、貴方が
前へ 次へ
全50ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
橘 外男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング