紳士の首へ手を回して、何か小声で話しています。紳士が可愛《かわい》げに頷《うなず》きながら、私の方を眺めています。
 そして、娘が話し終って傍らを離れていると、
「さ、おはいりなさい!」
 とアーチのところに佇《たたず》んでいる私を、麾《さしまね》きました。初めてテラスに上っていって、私はこの紳士に挨拶《あいさつ》をしたのです。
「道にお迷いになったとか! 娘がお役に立って何よりでした。よろしかったら、どうぞ、ごゆっくり、お休みになって……さ、おかけ下さい」
 立派な日本人ですが、さすがに混血児《あいのこ》の父親だけあって、海外生活でも送った人らしく人を逸《そら》さぬゆったりとした応対でした。この山の中に住みながら、紳士は血色のいい赭《あか》ら顔で、半白の頭髪をキチンと梳《くしけず》って、上衣《うわぎ》は着けていませんが、ネクタイにスエターを纏《まと》っているのです。赤革の靴といい……この人気《ひとけ》のない山の中に、誰が一体、来る人があるのでしょうか? 娘といい父親といい、身嗜《みだしな》みの正しさには、驚かずにはいられません。そこにかけて、問われるままに昨日|雲仙《うんぜん》を出て、南有馬へ行くのに道に迷い、小浜《おばま》へ行くにもまた北の道を取り損って、山を降りたところで偶然娘さんに出逢《であ》ったこと、連れられてここへ来たことなぞを、話したのです。
「貴方《あなた》の、越えておいでになった山は」
 と紳士は、肥《ふと》った煙管《パイプ》の手を挙げて、例の犬に咆《ほ》えられた山を、指さしました。
「この辺では、周防山《すおうやま》と呼んでいます」
 紳士の問いに答えて、初めの予定では南有馬から、島原鉄道で口の津へ出て、口の津から小浜までは海岸美がすばらしいと聞いていることから、ここを歩いて小浜から乗合《バス》で諫早《いさはや》へ出て、帰京するつもりだったということなぞ……。
「ほう、貴方は東京にお住いですか」
 と、いうことから今|麹町《こうじまち》の番丁《ばんちょう》に住んで、大学の医学部へいっていること、そしてパンフレットを見ているうちに、無性に旅へ出たくなって、ここまで出て来たというような話になってきたのです。
「わたしはまだ、東京は一度も行ったことがないが……さぞ、賑《にぎ》やかでしょうな? そんな賑やかな都会からおいでになったら、随分|淋《さび》しいところだとお思いでしょうな?」
 紳士は、穏やかにほほえみました。そして私の旅行話に興味を持ったらしく、小形の地図なぞを出して、フムフムと相槌《あいづち》を打っていましたが、そのうちに例の娘は珈琲《コーヒー》を淹《い》れて、運んで来てくれました。
 どういう淹れ方か? 私は一遍、東京で土耳古《トルコ》風の淹れ方だとかいって、叔父の相伴《しょうばん》をしたことがありましたが、ちょうどそれと同じでした。小さな茶碗《ちゃわん》に、苦味《にがみ》の勝った強《きつ》い珈琲をドロドロに淹れて、それが昨日から何にも入っていない胃の腑《ふ》へ沁《し》み込んで、こんな旨《うま》い珈琲は、口にしたこともありません。
 その珈琲を御馳走《ごちそう》になってるところへ、にこにことほほえみながらまた一人、美しい娘が現れて来たのです。
「ジーナ、お前もかけて、珍しいお客様のお話でも、伺ったら?」
 と紳士が勧めましたが、スパセニアが働いてますから、わたしも手伝って! とか何とか、いったようでした。そして顔を染めながら、逃げるように行ってしまいました。その娘の美しさにも、私は眼をみはらずにはいられませんでした。
 二十一、二か、三ぐらい、さっきの娘の姉なのでしょう、妹とよく似た面差《おもざ》しはしていますが、これは妹と違って細面の、艶《あで》やかな瞳《ひとみ》……愛らしい口許《くちもと》……隆《たか》い鼻……やっぱりふさふさとした金髪を、耳の後方《うしろ》へ撫《な》で付けて、丈《せい》も妹よりは、心持ち高いように思われます。妹の利《き》かなそうな様子に較《くら》べて、見るからに温和《おとな》しそうな、混血児《あいのこ》にも似ぬ淑《しと》やかさを感じました。
 紳士といい今の姉娘といい、またさっきの妹といい、いずれ劣らぬ美しい上品な親娘《おやこ》が、訪《おとな》う人も来る人もない淋しい山の中の一軒家で、一体、何をしているのでしょう? そして、形も崩さず、礼儀正しく生活している不思議さ? しかも今の父親の話によれば、まだ東京へ行ったこともないというのです。
 父親が東京を知らないのなら、娘たちとても都は知らないのでしょうが、東京でさえめったに見られないような人たちが、こんな山の中にこんな清らかな住居を構えて、一体どういう身の上の人なのだろうか? と、私は燃えるような好奇心を、感ぜずにはいられなかった
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