で真っ黒になっていた。
「あの辺には、相当な山が沢山にあります。吾妻《あづま》山……鳥甲山……国見《くにみ》岳……山へ登っては温泉へ泊り、温泉へ泊っては山へ登って、一週間余りも遊び暮したでしょうか? 最後に高岩山へ登って、あれから戸石川の渓谷に沿って南有馬へ出て、景色のいい千々石《ちぢわ》湾の海岸をバスに揺られて小浜《おばま》、諫早《いさはや》へ出て帰るつもりで計画《スケジュール》を立てていたのです。
 そのために、到頭一生忘れられぬ記憶を、刻み付けられてしまいましたが……塔沢岳、稲荷《いなり》山……地図に磁石を当て当て、道を南へ取って進みました。あの辺の山は、そう驚くほどの高さではありません。精々四、五百メートルから七、八百メートルくらいです。北アルプスや立山《たてやま》を踏破してきた身には、何でもありませんが、割合に奥行きが深くて、どこまでいっても山脈《やまなみ》が尽きないのです。松や杉の木立が、鬱蒼《うっそう》と繁《しげ》っています。
 私が、一番最後に登った高岩山の麓《ふもと》から、三脱という部落を過ぎて南有馬の町は、まっすぐ南へ直線コースで大体、三里半ぐらいと踏みました。そしてやがて畑や水田や、麦畑が見えるはずなのに、いくら歩いてもいくら歩いても、そんなものが出て来るどころではないのです。叢道《くさむらみち》の両側は、見上げるような山ばかりで、蓊鬱《こんもり》とした杉の木ばかり、聳《そび》えています。二時間歩いていても、三時間歩いても、人っ子一人行き逢《あ》わない淋《さび》しさです。出ているでしょう? 高岩山からちょっと下ったところに……少し左へ寄って、戸石川というところが……」
 なるほど、出ている、出ている、内中尾という側に、戸石川というところが……。
「それを私は、道を間違えて、その辺で東南に下《くだ》るところを、景色のいい回りの山に騙《だま》されて西南の方角へ踏み入っていたのです。ですから、どこまでいっても平坦《へいたん》な道へ出ずに、めった深い山の中へ迷い入っていたのです。そして気が付いた時は、磁石もどこかへ落としていました」
 私は十万分の一の地図を眺《なが》めているが、もうすっかり頭へ入っているのであろう、病人は細かい地名までことごとく宙で諳《そらん》じているのであった。正確無比な話であった。
「そうして大分南へ下がっても、人っ子一人行き逢わぬ山の道で、ふと気が付いた時は、今から考えれば、……その地図の下の方に出ているでしょう? 笹田というところあたり、だったかも知れません。もうさっきの戸石川という分岐点からは、二、三里ぐらいも過ぎていたろうと思います。
 失敗《しま》った! と、思いました。しかし、もうこの道を、後戻りするのも面倒ですから、なるべく南へ下らずに、北東へ道を取っていっそのこと小浜《おばま》の町へ、出てしまおうと考えました。そうすれば、今夜はもう仕方がないから、その辺で野宿をして、明日《あした》は朝の七、八時頃には、小浜へ行き着けるに違いないと思ったのです」
 と言葉を切って、しばらく休んでいた。
「でも、もうそんな山の中の話なぞは、お厭《いや》でしょう? 簡単に、申上げてしまいましょう。その晩は到頭その山の中で、野宿をしてしまいました。元気な時でしたから、碌《ろく》な仕度もせず、碌な食糧一つ持たずに、平気の平左だったのです。
 そして、翌《あく》る朝は夜が明けるとスグに、歩き出しました。私の辿《たど》っている道は、最短距離のつもりでわざと、山の背伝いの細道を、分けていたのです。そして今朝《けさ》歩き出してからでも、もう三時間くらいは歩いていましたから、野宿したところからでも三、四里ぐらいは来ていたろうと思います。
 やっと、吻《ほ》っとしました。今|頂《いただき》に立って、大きな赤松の枝の間から眼を放った遥《はる》かの端《はず》れに、涯《はて》しもない海が、真蒼《まっさお》な色を見せているのです。地図にも載っていませんから、ここが何というところかわかりませんが、いよいよ海岸へ出端《ではず》れて来たのです。南高来《みなみたかき》郡の西端、千々岩《ちぢわ》湾の海岸へ、抜けることができたのです。この海岸に沿っていけば、小浜の町へ辿り着けることは、もう間違いありません。
 まさか、こんなところで野宿しようとは思いませんから、昨日宿を出る時に拵《こしら》えてもらった、昼の弁当の残りを詰め込んでいるばかり、疲れてもいますが第一、腹が空《す》き切ってペコペコです。が、いよいよ目指す海岸へ出た喜びに、その辺の百日紅《さるすべり》の手頃な枝を切って、洋杖《ステッキ》なぞを削りながら足も軽やかに、山を降りていたのです。と、岩躑躅《いわつつじ》の一杯に咲き乱れた、そこの岩陰を曲った途端に、――もうそこは、山の
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