き下さったからとて、もう自分は余命いくばくもない身の上だから、それまで生きてもいないだろうし、第一、先生に、質疑するだけの気力もない。ただこの話を聞いて下さるだけで、もう充分に、満足なのである。
 ただ、できれば一つだけお願いしたいと思うことは、どこそこの何というところに、コレコレこういう恰好《かっこう》をした、墓が二基並んで建っている。いつか先生が御都合がよろしい時に……十年たってもいいし、十五年先でもかまわぬけれど、もし向うの方へ御旅行になった時にでも、私の申上げたところを一度実地に見て下さって……私はあまりの恐ろしさに、到頭見ずに逃げて帰って来てしまったが、もし私に代って先生がその墓を見て下さったならば、どんなにどんなに、うれしいか……先生、私は、草葉の陰から手を合わせて先生に、お礼を申上げています……。
 私は耳を澄ませて病人の話を聞いていた。
「……死にかけてる人間が……何を夢のようなことをいうと……長い病気で……長い病気で……」
 と病人は息を弾ませた。
「いい加減なことをいってると……先生はお思いになるか知れませんけれど……先生、ウソではないのです……私は決して……ウソを申上げてはいないのです……」
「わかりました……わかりましたから、そう昂奮《こうふん》してはいけません」
 と、私は制した。
「お易《やす》い御用です」
 と、承諾した。
「貴方《あなた》のお話が、ウソなぞと決して思いません。思うくらいなら、こうやってお話を伺ってはおりません。……ただ……ただ、お聞きしたところで私には、何のお役にも立つことができませんが、しかしそれで貴方のお胸が晴れるのなら、喜んで伺わせてもらいましょう。どうぞ、気の済むまで、お聞かせ下さい。……それから、その土地へ行って貴方の仰《おっ》しゃったお墓を、見るということ。外国では困りますが日本国内なら、どこでも結構です。都合なんぞかまいません、スグ行ってみることにしましょう。行って貴方の代りに、見て来ましょう。ハッキリとお約束します」
「先生、もう何にも……何にも……申上げる言葉が……ありません……」
 と瘠《や》せ衰えた頬《ほお》に、ポロポロ涙を伝わらせながら蒲団《ふとん》に顔を隠して、枯木のような手を差し出した。その手を握りながら、病人の話しやすいように、もう一膝《ひとひざ》私が乗り出したといったならば、もはやこれ以上くだくだしくいわずとも、この物語がこの病青年から出たものであるということは、読者にもおわかりになったであろうと思われる。病人が亡くなったのは、その時訪ねて三日ばかり間を置いて、もう一度訪ねてから都合二回の私の訪問の後、おそらく一週間か、十日目くらいではなかったかと思われる。
 今でも眼を閉じると、持っていった薔薇《ばら》を喜んで花瓶に挿《さ》して、その日薔薇の花弁《はなびら》より、もっともっと青白い顔で天井を瞶《みつ》めながら、喘《あえ》ぎ、ポツリポツリ、話していたあの時の姿が、眼に見えるような気がする。では、青年の話へ移ることにしよう。
 ただし、物語の性質が性質だけに、現住の人々に迷惑をかけてはいけぬから、土地の概念だけは適当に私が変化しておくことにする。その辺に無理が起るといけぬから、あらかじめ御諒承《ごりょうしょう》を願っておこう。

      一

「私がそこへいったのは、ちょうど医学部の三年になったばかりの頃……二十二の時でしたから、今から三年ばかり前……まだ身体が丈夫で、元気一杯の時だったのです」
 と壮健《たっしゃ》だった時分を愛《いと》おしむような調子で、病人は語り出した。何度もいうとおり、声が掠《かす》れて低く、時々|痰《たん》が絡んでぜいぜいと苦しそうに喘ぐのであったから、聞いているのも容易ではなかったが、面倒臭いからそういう病気の描写は、一切抜きにしよう。
「出かけていったのは、雲仙《うんぜん》です。詳しくいうと、長崎県の南高来《みなみたかき》郡ということになりますが、別段友達がいたわけでもなければ、用事があったわけでもありません。
 雲仙国立公園のパンフレットなぞを見ているうちに、子供の頃から山が好きなものですから、無性とあの辺の山へ登ってみたくなって……ちょうど学校が休み続きなもんですから、一人でブラッと出かけていったのです。……宮部さん、そこに地図がある。ちょっと取って下さい。そう……その次の抽斗《ひきだし》に……」
 と、看護婦の差し出した参謀本部の十万分の一の地図を、私の前にひろげさせた。
「もう今では、その時の記念は全部処分してしまって、何にも残っていませんが……」
 病人にとっては、懐かしい思い出の地図なのであろう、が、使用した後でもしょっちゅう眺《なが》めていたと見えて、紙は皺《しわ》くちゃになって、おまけに手摺《てず》れ
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