十一
姉妹《きょうだい》の教えてくれた肥後屋という旅籠《はたご》屋は、村の中ほどにありました。私が疲れ切った足を引き摺《ず》って、この宿屋へ着いたのは、夜ももう八時近くだったでしょうか? 辺鄙《へんぴ》な片田舎の宿屋ですし、泊り客もないとみえて、静まり返っていましたが、さて奥まった部屋に通されて、やっと食事も済ませて人心地ついたからだを伸ばしている時に、朴訥《ぼくとつ》そうな四十五、六の亭主が、
「お客様、さきほどはまことにご丁寧さまに」
と、さっきやった茶代の礼に、はいって来ました。
お客様、明日はどちらの方へおいでになりますか? 山越えで雲仙《うんぜん》へでも? とか、どちらからおいでになりました? とか、どこも変らぬ宿屋の亭主らしい挨拶《あいさつ》をしていましたが、亭主のつもりでは、こんなお愛想の一つ二つも並べて、引き下がるつもりだったかも知れません。が、私が小浜《おばま》から大野木村を過ぎて、東水の尾から四里の山越えをして来たと聞くと、何ともいえぬ好奇の眼を輝かせました。
「ほう、珍しいところを通っておいででございましたな? どなたかあの辺に、お知り合いでも……?」
「そう……ちょっとあったんだけれど……今度来てみたら、そこがすっかり焼けてしまってね……驚いたよ。おまけに亡くなったんだって聞かされて……」
「ほう! 旦那《だんな》様、よう御存知で……どこでお聞きになりました?」
「なあに、やっと出逢《であ》ってね、その人の娘さんが、そういったよ」
「へえ……お嬢様が……? お嬢様にお逢いになって……?」
「君の家も、その娘さんたちに教えられて……」
ここまではいいのです。ここまでは何でもありません。が、そのお嬢様と仰《おっ》しゃるのは、おいくつぐらいで? と亭主が聞きますから、上の方は二十二、三……三、四くらいか知ら? 妹の方は二十歳《はたち》……二十一くらい……といった途端に、颯《さ》っと亭主の顔色が変りました。
「ではどうぞ……御ゆっくり……と」
と宿帳を引ったくり取って、逃げるようにアタフタと階下《した》へ降りていってしまいましたが、それから十分ともたたぬ間に、
「唯今《ただいま》はどうも、失礼をいたしまして……」
と、またはいって来たのです。小女《こおんな》でも床をとりに来たのかと思いのほか、今の亭主がいいようもない緊張した顔で、はいって来たのです。しかもミシリ、ミシリと、誰か障子の外で聞き耳を立てているらしいけはいです。
「旦那《だんな》様……実は家内に話しましたところが、家内がもう一度伺って来いと申しますんで……さきほど手前どもの家を、お教えになったとか仰《おっ》しゃいましたのは、石橋様の……お亡くなりになりました石橋弥七郎様の、お嬢様でいらっしゃいましょうか?」
私の方が呆気《あっけ》に奪《と》られるくらい、真面目《まじめ》な顔付きです。真面目というよりも、土気《つちけ》色のオドオドした顔といった方がいいのかも知れません。
「そう……お父さんはたしか、石橋弥七郎とかいわれた……」
「石橋様のお嬢様とすれば……たしか……アノ……向うのお方で……?」
「そう……混血児《あいのこ》だよ……教えてくれただけじゃない……あすこの橋のところまで……村の入り口に、石の橋が架かってるだろう? あすこまで、送って来てくれたよ」
「あの……橋のところまで送っていらして……ではつかぬことをお伺いいたしますが、旦那様は東京で、大学へいっていらっしゃいますんで」
「そう、僕は大学生だけれど?」
それがどうしたんだといわんばかりに、私は聞き返しました。途端に、亭主の顔の色といったらないのです。唇まで血の気をなくして、
「だ……だ……旦那様……そ……それは」
と震えて口がきけないのです。その瞬間、逃げ出すようにドドドドドドと、階段を駈《か》け降りて行く跫音《あしおと》が聞こえます。
「旦那様……た、た……容易《ただ》ごとではございません。そ……それは……」
真っ青《さお》になって手足ばかり震わせているのです。
「幽霊でございます……石橋様のお嬢様の、幽霊に違いございません」
「…………」
「旦那様、どちらの方でございます? 上のお嬢様でございましょうか? 下のお嬢様でいらっしゃいましょうか?」
「二人で送って来てくれたよ! ……生きてるのに、幽霊なぞと……そんなバカなことが、あるものか!」
「生きてではございません。お二人とももう……」
「何……?」
途端に私も全身から血の気が引きました。
「四カ月ばかりも前にお亡くなりでございます……」
夢中で私は起き上がりました。
「……何でも、東京の大学生とかを、えらく怨《うら》んでたという噂《うわさ》でございましたが……ああ、やっぱり噂のとおりだった…
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