! と、その時も儘《まま》ならぬひとり息子の身の上を、どんなに小五月蠅《こうるさ》く感じたか知れませんでした。
 到頭その夏は、秋風が立って十月|赤蜻蛉《あかとんぼ》の飛び交う頃まで、体温計と首っ引きで、伊東で寝て暮してしまいました。気候がよくなってから、やっと東京へ戻って来ましたが、医者がヤカマシクいうものですから、その翌年の四月頃までも、寝ていましたでしょうか?
 今に起きられるようになったら、今年の夏こそどんなことでもして、二人に逢いに行こうと寝ながらもそのことばっかり考えて暮していましたが、せっかくよくなったと喜んだ甲斐《かい》もなく、暑くなりかけてきた二月《ふたつき》後の六月半ば頃から、またからだの違和を感じて、父と母の厳命で、その年の夏から秋へかけては、到頭七里ヶ浜の湘南《しょうなん》サナトリウムで、懊悩《おうのう》しながら療養の日を送ってしまいました。
 来月休暇になったらスグ訪ねると約束して、二人に見送られて大野木から発《た》って来たのが、去年の六月の十四日……休みになっても到頭行くことができず、また今年の夏も行くことができず、さぞ二人が待ち切っているだろうと思うと、寝ていても気が気ではないのです。
 永い秋の日を、一日一杯|寝椅子《ねいす》で安臥《あんが》している病院生活の間中、寝ても醒《さ》めてもただうつらうつらと、日となく夜となく頭の中で私にほほえみかけてくるものは、ただジーナとスパセニアの二人だけだったと申上げたら、その時の私の焦慮と焦心が察していただけるかも知れません。そして、頭を掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りたいほど、ただ自分の意気地のないからだが……、いいえ、からだというよりも、二十三にもなる大《だい》の男の身でありながら、自分の思うに任せぬひとり息子の身の上を、どれほど情けなく思ったか知れません。
 そんなに気を揉《も》んでいたのなら、行くことができなければ、せめて、手紙でもどんどん出してたらいいじゃないかと、先生はお思いになるかも知れませんけれど、相手があの二人の場合には、手紙ということがまったく私には、不可能に近いのです。
 というのは、日本へ来ている外人たちと同じくジーナでもスパセニアでも、聞くこと話すことは、日本人と寸分変りない流暢《りゅうちょう》さですが、字だけは全然読むことも書くこともできないのです。
 漢字はもちろん、平仮名さえムズカシクテ、一字も読めません。わずかに、片仮名だけがどうかこうかわかる程度……、尋常一年生の書いたような字で、一時間もかかって、やっと七、八行も綴《つづ》り得る程度だったでしょうか? その代り仏蘭西《フランス》語なら本国語同様自由自在でしたが、その仏蘭西語は私にわからず、私にわかる英語、独逸《ドイツ》語はまた二人に通じませんし、手紙となっては、いかんともお互いに意思の通じようがないのです。仕方がありませんから、どうかこうか通じると思われる片仮名で、私は看護婦にも頼み、自分でも時々手紙を書いてみました。
 が、本字を一字も使わずに、片仮名だけで書くということが、外国語を使うよりも、どんなにムズカシクテ、はかの行かないものであるかということは、先生もよくおわかりでしょう? 二、三字書くと、本字が出て、慌てて消し、また三、四行続けると、本字や平仮名が出てその部分を消し、消しては書き、消しては書きして真っ黒になって、仕方がありませんから清書して出すのですが、これでは到底詳しい事情や、こまかい意思なぞの現わせるものではありません。
 ワタクシハマタベウキ……ハはワでなければならず、病気もベウキと書いては、二人には判じられないのです。ビヨウキと直さなければなりません。ココノベウインニニユウインシテイマス……ただそれくらいのほんの切り詰めた用件を知らせるだけが、精一杯です。
「ベウインじゃ駄目だ、ビヨウインと書かなきゃ駄目だといってるじゃないか!」
 と、何度|癇癪《かんしゃく》を起して、私は看護婦をドナリつけたか知れません。
 早く逢《あ》いたい! 逢いさえすれば、アレもいおう、コレも話そう……ついでに、片仮名で手紙の書けなかったわけも話そう……と諦《あきら》めて、私はペンを投げ棄《す》ててしまいました。逢って話しさえすれば二人ともほほえんで、造作なくわかってくれることなのですから……。
 そのワタクシハの、ハの字を消して、ワと書き直して、ワタクシワマタベウキを消してビヨウキと書いて、コノベウインヘをまた消して、ビヨウインエ……と直した消しだらけの手紙を出すと、ジーナやスパセニアからもまた、お手本でも見て書いたらしい、尋常一年生のような手紙が来ます。
 時々、ABC《アルファベット》とも亜剌比亜《アラビア》文字とも[#「亜剌比亜《ア
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