人が喋《しゃべ》っているような気がしました。
「迷惑どころじゃありませんわ……もう、わたくしたちみんな、楽しくて……このままお別れ、できないような気持ですわ。……初めていらした時から……初めていらした時から……わたし……いい方がいらして下さったと……」
「え?」
 と、私は耳を疑いました。途端に全身がかっとして、燃えるようにまたにっこりと赧《あか》らめているジーナの顔が、ぽうっと花の咲いたように眼の前に躍って、この瞬間ほど私は、自分を幸福だと思ったことはありません。そしてその瞬間、もし眼を向うの方へ走らせて、ハッとしなかったらおそらくあるいは、夢中で彼女のからだを引き寄せてしまったに、違いありません。
 が、瞬間私は、草原の中を疾風《はやて》のように馬を走らせて来る、スパセニアの姿を認めたのです。そしてびっくりして、突っ立ち上がりました。見果てぬ楽しい楽しい夢を、引き破られたような気がして、何ともいえぬ腹立たしさを感じました。
「お待ちどおさま、……随分手間どったでしょう? 六蔵ったら……いくら探しても、いないのよ、散々探して、大野木へいこうとしている途中まで追っ駈けてって、やっと連れて来たわ」
 とそこに、馬を立てているのです。
「ほら、あすこへ来るでしょう?」
 なるほど、湖の遥《はる》か東側に、草原の中を歩いて来る人の姿が見えます。スパセニアは家まで戻って、馬でその六蔵という男の行方を探し回っていたのでしょう、温かい陽《ひ》に蒸されて、上気したようにポウッと眼の縁が染まって、汗ばんだ髪がビッショリと、頬《ほお》についています。
「いらっしゃいよう! ……さ、今、水門をあけさせますから!」
 馬から降りたスパセニアを先立てて、私たちはまた草むらを水門の方へ向いました。が、今の私にはもう、そんな溝渠《インクライン》を見たいという願望なぞは、少しもありません。それよりも、もっともっとジーナと二人っ切りで、話していたくて……話ができなくても二人っ切りでただじいっと腰かけてたくて、スパセニアの後からついて行きながらも、ともすればシーナの手が握りたくて、からだが触れ合うたんびに、胸を轟《とどろ》かせていたのです。
 そして漠然とした未来を、取り留めもなく考えていました。私の父も母も、私がたった一人の息子ですから万事に干渉して、その五月蠅《うるさ》いこと、五月蠅いこと! 何
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