紳士の首へ手を回して、何か小声で話しています。紳士が可愛《かわい》げに頷《うなず》きながら、私の方を眺めています。
 そして、娘が話し終って傍らを離れていると、
「さ、おはいりなさい!」
 とアーチのところに佇《たたず》んでいる私を、麾《さしまね》きました。初めてテラスに上っていって、私はこの紳士に挨拶《あいさつ》をしたのです。
「道にお迷いになったとか! 娘がお役に立って何よりでした。よろしかったら、どうぞ、ごゆっくり、お休みになって……さ、おかけ下さい」
 立派な日本人ですが、さすがに混血児《あいのこ》の父親だけあって、海外生活でも送った人らしく人を逸《そら》さぬゆったりとした応対でした。この山の中に住みながら、紳士は血色のいい赭《あか》ら顔で、半白の頭髪をキチンと梳《くしけず》って、上衣《うわぎ》は着けていませんが、ネクタイにスエターを纏《まと》っているのです。赤革の靴といい……この人気《ひとけ》のない山の中に、誰が一体、来る人があるのでしょうか? 娘といい父親といい、身嗜《みだしな》みの正しさには、驚かずにはいられません。そこにかけて、問われるままに昨日|雲仙《うんぜん》を出て、南有馬へ行くのに道に迷い、小浜《おばま》へ行くにもまた北の道を取り損って、山を降りたところで偶然娘さんに出逢《であ》ったこと、連れられてここへ来たことなぞを、話したのです。
「貴方《あなた》の、越えておいでになった山は」
 と紳士は、肥《ふと》った煙管《パイプ》の手を挙げて、例の犬に咆《ほ》えられた山を、指さしました。
「この辺では、周防山《すおうやま》と呼んでいます」
 紳士の問いに答えて、初めの予定では南有馬から、島原鉄道で口の津へ出て、口の津から小浜までは海岸美がすばらしいと聞いていることから、ここを歩いて小浜から乗合《バス》で諫早《いさはや》へ出て、帰京するつもりだったということなぞ……。
「ほう、貴方は東京にお住いですか」
 と、いうことから今|麹町《こうじまち》の番丁《ばんちょう》に住んで、大学の医学部へいっていること、そしてパンフレットを見ているうちに、無性に旅へ出たくなって、ここまで出て来たというような話になってきたのです。
「わたしはまだ、東京は一度も行ったことがないが……さぞ、賑《にぎ》やかでしょうな? そんな賑やかな都会からおいでになったら、随分|淋《さび》しい
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