ませんけれど……もう今度来た時には……今度来た時には……もう私はこの世に生きてはおり……ません……」
これで、青年の話は終った。もう一度繰り返すが、青年が亡くなったのは、それから一週間か十日目ぐらいではなかったかと覚えている。青山斎場で行われた葬式には、柳田家の懇請で私も親族席に立った。黙念として唇を噛《か》んでいる、父親の総裁柳田篤二郎氏の姿も侘《わび》しかったが、嗚咽《おえつ》しながらフラフラと倒れた母夫人の姿には、親の心さもこそ! と私も熱いものの迸《ほとばし》り出るのを禁じ得なかった。
あとがきの一
青年の死後十日、約束により、万障放棄して六月九日朝九時、特急つばめで東京駅を発《た》つ。妻の注意によって、途中京都で降りて、名香|幽蘭香《ゆうらんこう》を用意する。下の関山陽ホテルで水の尾村助役牧田耕三郎氏が、門司まで出迎えてくれることを知る。
六月十二日、小浜《おばま》に着く。目抜き通り呉服町にある小浜警察署を訪《おとな》う。突然の来訪に、受付の警官は胡散《うさん》臭そうに、剣もホロロな顔をしていたが、事情を説明すると渋々古い帳簿なぞを調べてくれる。捜査したのは昭和二十五年五月六日、捜査のため山へ登ったのは、部長刑事の木下昭造氏、刑事佐藤捷平、刑事山田金次氏たちのほか巡査二人……木下部長は警部補に昇進して愛野警察の捜査主任に転出し、佐藤刑事は県下|矢筈《やはず》町に出張中、山田刑事は病気のため欠勤中とのこと。
受付の警官は私のために、湖中から引き揚げた姉妹《きょうだい》の屍体検案書を帳簿から抜き出して見せてくれた。なるほど石橋スパセニア(二十歳)は無疵《むきず》の溺死体《できしたい》であるが、石橋ジーナ(二十三歳)は額に盲管銃創を負っている。
そういうわけなら、ともかく署長に逢《あ》って欲しいと頻《しき》りに勧めてくれるが、検案書を調べてみても、警官の話によって当時の状況を符合してみても、故青年の話と一点一画の違いもないことを確かめたから、私の警察署訪問の目的は達した。これ以上、署長に聞くこともなければ、刑事たちに逢う必要もないから、受付氏に礼を述べて署を出る。大野木村へ向う。
大野木村から北西へ十六町、木俣《きまた》川に架せられた橋を渡るとそこに、三十町ばかりの水田が開けてくる。管轄は大野木村に属して字《あざ》佐久間新田と呼ば
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