に暮していられたが、その間も旦那様は毎日のようにピアノに向っていられたというのです。
「何をそんなに弾いているんだね?」
「さあ、わし共にゃサッパリわからねえでがすが」
と爺やは歯のない真っ黒な口をあけて笑いました。
「旦那様は譜をお作りになるでやして……それでピアノをお弾きになるでがす」
「へえ、棚田さんがねえ――」
と相槌《あいづち》は打ちましたが、もちろん私にも音楽の趣味も何もあったものではありません。ただ裁判長として、松島事件を裁いた厳《いか》めしい人の隠れた一面を覗《のぞ》いているような気がして、頷《うなず》いただけでした。
「せっかくお訪ね下せえやしても何のおかまいもできましねえで……お上がんなすって、お茶の一つも上がって下さりゃ、旦那様もお喜びになると思うだが」
勧める老爺に別れを告げて、やがて私はまた竹藪《たけやぶ》に沿うた坂を下って、田圃《たんぼ》の傍《そば》の庚申塚《こうしんづか》のある道や、子供の頃|笹《ささ》っ葉《ぱ》を持って蛍《ほたる》を追い回した小川の縁へ出て来ましたが、立ちどまって振り返って見ると――眠ったような森や石垣の上に、この四、五十年来、何一つ殖《ふ》えたものもなければ減ったものもなく、相変らず城のような棚田の家を眺《なが》めていると、私までが三人の子供の父親でもなければ医者でもなく、まだあの頃の洟《はな》っ垂らしのような錯覚が起ってきてならなかったのです。
四 狂想曲
大村の話は私よりもっと興味が深かろうと思いましたから、帰りは静岡へ寄って老父や老母相手に一齣《ひとくさり》大村の懐旧談に花を咲かせました。もちろん名古屋にいる棚田判事へも懐旧のあまりお留守中にお宅へ伺って、爺《じい》やの案内でよそながら昔を偲《しの》んで来た旨の簡単な手紙を出しておきました。判事からは返事が来て、御光来の旨は留守番の老爺《ろうや》の知らせによって承知していたが、お上がりになってお茶でも飲んでって下さればよかったにと、妻とも語り合った次第、もし当地方へお出かけの節はぜひ一度お立ち寄り下されたく、自分上京の折は一度拝顔を得て、昔話でもいたしたいと思っておりますという、儀礼的な返事が来たように覚えていました。が、もちろん私の方から名古屋へ行く折もなければ、先方がわざわざ訪ねて来るほどの用件もありませんから、そんな訪問がお互いの疎遠の仲を取り持つはずもなく、また二年三年は夢のように過ぎ去ってしまいました。その間に私の父も母も相次いで世を去って、今では棚田判事との間もまた昔日のごとくに疎くなり切っていたことでしたが、さてその頃に私は一年ばかりの予定で、亜米利加《アメリカ》へ行くことになったのです。この年をして今更留学|面《づら》もないことですが、若い時父母を抱えていましたので、到頭大学の研究室にも残ることができなかったため、五十の手習いのようなものでしたが、留守を医員たちに任せて、新しい病院の施設を視察に行くことになったのです。
終戦後の二十四年から翌年の三月までをボルチモアのジョンズ・ホプキンスの大学病院で送って、帰りは欧州の医療施設の見学かたがた西|独逸《ドイツ》、仏蘭西《フランス》、伊太利《イタリー》等を回ることにしましたが、私の言いたいのは西独逸のボンに滞在中のことだったのです。
ホテルが同じでふと知り合ったのは、私と反対に仏蘭西、独逸等の欧州を回ってから亜米利加の司法制度の見学に行く、土井という最高検の検事や、法務省の官房総務部長の検事等々、判検事の一団だったのです。
「ほう、棚田判事とお友達でしたか? 安井君! こちらは小さい時分に棚田判事とお友達でいらしたそうだ」
「ほほう、それはお珍しい! 私は研修所に勤めているもので」
と紹介された判事も検事も、ことごとく私が棚田判事と友達だったということを珍しがって、頻《しき》りに判事のうわさに余念もないのです。が、昔は友達だったかも知れませんが、今の私はもちろん判事については、何ら知るところもないのです。かえってこの人々に教えられて、色々なことを知りましたが、子供の頃は痩《や》せて弱そうな子であった判事が、今では身体の丈夫な、しかし、非常に寡黙《かもく》な、むしろ陰鬱《いんうつ》に近い性格の人であるということなぞもその一つでした。ああ真面目《まじめ》過ぎてもどうでしょうかねえ? 学者、教授《プロフェッサー》ならかまわないが、判事は生きた人間を裁くんですから、もう少しはくだけて明るさがあってもいいと思うんですがねえ、と、私の話相手をしている安井という判事は言うのです。人間らしくとはどういう意味か知らんがあの人は心が優しくて同情心がなかなか深いぜ、司法官としては立派なものだと思うがねえ、と総務部長が答えているのです。
「もちろん棚田さんの人格については云々《うんぬん》しませんさ! しかし僕はあの人は道を誤られたんじゃないかと思うのですよ。あの人は作曲家になって自分一人の天分をコツコツと掘り下げて行くべきはずだったと思うんです。芸術家として生きるように、運命づけられた方じゃなかったかと思うんですがね。だからあの方は自分でも意識せずに、随分悩んでられるんじゃないでしょうか?」
「へえ! あの人は作曲をするんですか?」
と、びっくりして私は口をはさまずにはいられませんでした。
「おや! あなたは御存知なかったのですか?」
と安井判事の方がもっと驚きました。
「三浦|襄《じょう》といえばその方面では有名なもんですよ」
と棚田判事の作曲上のペンネームを安井氏は挙げました。
「我々のようなガサツな人間にはわからんですがね、その方には素晴らしい才能を持ってられるらしいですよ。もう大分発表してるんじゃないでしょうかね?」
「へえ、そいつは知りませんでしたな。そういう才能を持ってたんですかねえ? ……あの人が!」
と私は眼を円《まる》くしましたが、その瞬間にいつか大村で聞き流した、あの言葉を思い出さずにはいられなかったのです。
「今音楽学校の教授のリーゼンシュトックさんが……」
と、最高検の土井検事が口をはさみました。
「独逸《ドイツ》へ帰って来ていられるんですがね。今夜我々と会食した後で、ピアノを聞かせて下さることになってるんですよ、どうです、その時リーゼンシュトックさんに棚田さんの作曲を一つ弾いてもらおうじゃありませんか? あなたも御一緒にいらっしゃいませんか?」
「ああそれがいい、それがいい……お待ちしてますからいらっしゃいよ」
と、ほかの連中も賛成してくれて、結局一同に勧められて、私もその晩の会食に出席することになったのです。リーゼンシュトックという教授がどういう人であったか、ということは、私なぞより読者の方が詳しいでしょうから、余計な冗事を並べたてる必要もないでしょうが、教授がドイツ一のピアニストとして、ヒットラーに追われて、グレゴール劇場の指揮者から上野の音楽学校の教授に抜かれてから、もはや何年くらいになるでしょうか。日本の楽壇に沢山の弟子を送り出して、日本人の奥さんを持ち、自国語同様、巧みに日本語を操り、そして東洋の風習を愛し切っている、この七十に垂《なんな》んとする老教授が、日本に骨を埋めるであろうことは、もはや誰の眼にも明らかなところでしょうが、教授は終戦後の変り果てた、祖国[#「祖国」は底本では「祖母」]独逸を久しぶりに訪問していられるのでした。が、私の言いたいのは、その晩老教授に紹介されて、判検事一同とともに教授と食卓を囲んだ一時間の後、さて老教授のピアノ弾奏に耳を傾けていた時のことだったのです。ホテルのホールといっても、そう広いものではありません。五、六十畳そこそこくらいのものだったでしょうか? あちらの棕櫚《しゅろ》の陰に、こちらの椰子《やし》やゴムの熱帯樹の側《そば》に、敷き詰められた猩々緋《しょうじょうひ》の絨毯《じゅうたん》の上に、足を組んだり煙草《たばこ》を吹かしたり、ヴァインの盃を傾けながら、連中は教授のピアノを聞いているのでしたが、かねての約束なのでしょう、サンサーンスや、バッハの小曲を弾き終えたのち、教授はピアノの上に載せられた譜本を取り上げました。
「今度ハコレヲ聞キタイノデスカ? ソレトモコノ方ヲ?」
と別の譜本を取り上げられました。
「先生済みませんが、その三浦という人の曲を聞かせていただけませんでしょうか? ここにいられる医師の前島さんが、三浦さんの子供の時からのお友達なのですが、まだ一度も三浦さんの曲を聞いたことがないと言われるもんですから」
と官房総務部長が私を指して言うのです。
「よろしい《グート》」
と先生が独逸《ドイツ》語で答えられました。
「弾イテミマショウ……ワガヨウジノオモイデ……ナルホド《ヴィルクリッヒ》……我ガ幼時ノ思イ出トイウ題デスネ……作者ジョー・ミウラ」
と声に出して読み上げながら、先生はピアノの前にかけられました。ポンポンと涼しい音が、先生の枯れた指の先から迸《ほとばし》り出てくるのです。しばらくそうして掻《か》き鳴らしているうちに、曲意が飲み込めたのでしょう、改めて先生は初めから緩やかなテンポで、弾き始められました。
が、私の言いたいのは、その瞬間だったのです。調子を取るように、一弾き一弾きペダルに力を込めて前後に身体を揺すっていられた先生は、やがて楽譜一枚くらいも弾奏し終えたかと思う頃合に、
「ヤッファ・ツォーイ!」
と、……私はその発音を、何と紙の上に現したらいいかを知りません。これは独逸語でもなければ、英語、仏蘭西《フランス》語でもないのです。しかし独逸人に限らず、亜米利加《アメリカ》人でも、仏蘭西人、和蘭《オランダ》人……西洋人のことごとくが、ほとほと当惑した時に、顔中をしかめて投げ出すような調子で、呟《つぶや》く苦笑の言葉だったのです。今も先生が突然世界共通のこの苦笑を洩《も》らして、起《た》ち上がられると、譜本を鷲掴《わしづか》みにしながら、身体を揺すぶって、顔中をしかめていられるのです。
「コレハ大変ナ曲デス……コノ作者ハモノニ憑《つ》カレテイマス。恐ロシイ曲デス……ワタクシ、コンナ曲ヲ弾イタコトガナイ……土井サン、コノ作者ハドウイウ人デスカ?」
「本名は棚田といって……棚田晃一郎という判事です。現職の……」
「オウ、判事! 現職ノ……! 判事サンナラワタクシヲ縛《しば》ルカモ知レマセン。ワタクシカマイマセン……恐ロシイ曲デス。……コノ人憑カレテイマス……人間ノ作ッタ曲デナイ……コノ人モウ長クハ生キナイデショウ……」
そして私の方へ柔和な老眼をじいっと向けられました。
「アナタ聞キタイ? コノ曲ヲ?」
「先生が御迷惑でなかったら……」
「カマイマセン、アナタガ聞キタケレバ……よろしい《シェーン》! 弾キマショウ、恐ロシイ曲デス」
そして先生は再びピアノに向われました。
私たちは前にも増して、一心に耳を澄ませましたが、初めに轟々《ごうごう》と北風を甍《いらか》を吹き、森の梢《こずえ》を揺すっているような伴奏が聞こえてきました。その騒音に入り交じって、時々人間の呶号《どごう》が響き渡ってくるのです。と、やがてどこからともなく澄み切った尺八の音が、哀韻《あいいん》切々と耳を打ってきました。
しかも我々の耳をそばだたしめたのは、それから五分か、十分くらいも曲が進んだ頃、またもや嵐のような喚声と叫喚の中に、柴《しば》にでも火をつけたように、パチパチと何か燃え上がるような音がしました。そしてその後でぼうと烈風のような凄《すさ》まじさを伝えてきたのです。それが已《や》むとひっそりと静まった中に、バサッ! と物の崩れ落ちるような音がして、後はただ静かな伴奏の中に梟《ふくろう》か何かの不気味な啼《な》き声が聞こえながら、そのまま、自然自然と曲は終りを告げてしまいました。
何ともいえぬ後味でした。しかも曲が終っても、誰も一言も口を開くものはありません。みんなじっと黙りこくっているのです。ただその中に先生だけが譜本を差し替えて、シュト
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