だったのでしょう。が、子供にとって事実の真相なぞはどうでもよろしいことだったのです。皺《しわ》だらけの白髪の祖母が思い入れよろしくあって……こう細い手を伸ばして責め折檻《せっかん》する時の顔の怖さといったらありません。叫ばんばかりの気持で、私は祖母の袂《たもと》を掴《つか》んでいましたが、ともかくその何代目かの主人の勘気に触れて、美しい腰元は責め殺されてしまいました。しかも責め殺したことが世間へ洩《も》れるのを憚って、家老は女の実家から何度問い合せがあるにもかかわらず、どうしても事の真相を明かしません。お家の法度《はっと》を破って男を拵《こしら》えて、逐電《ちくでん》した不届き至極な奴め、眼に入り次第成敗いたしてくれん! と猛《たけ》りたつようなことばかり並べたてて、表面を繕《つくろ》っていました。武家には頭の上がらぬ昔のこと、娘のそういう不都合な所為のあるはずもない、これには何か深い事情があることと思っても、並ぶものない権力者の御家老に向って、そういうことの面と言えるはずもなし、女の家では泣き寝入りをしてしまいましたが、どうしても[#「どうしても」は底本では「とうしても」]諦《あきら》めることのできなかったのは、その腰元の許嫁《いいなずけ》だったのです。この許嫁は、子供の頃から寺へやられて出家していましたが、この坊さんだけは真相を聞かぬ限り何としても、自分の許嫁の失踪《しっそう》には諦めがつかなかったのです。逐電したならしたで、どうかその顛末《てんまつ》を聞かせて欲しい、とたびたび棚田の屋敷へ足を運んで来ましたが、もちろん当主が逢《あ》おうはずもありません。いい加減なことばかり並べたてて追っ払っていました。が、この残忍な、我儘《わがまま》な家老の評判はあちらこちらに響き渡っていましたから、ハハア! と僧にも頷《うなず》けるものがあったかも知れません。が、確かに許嫁は殺されているとは思っても、実否もわからないことですし、無念を晴らしてやりたいとは思っても、相手は殿様を除いては土地随一の威権|赫々《かっかく》たる御家老では力のない僧侶の身には手も足も出るものではありません。
 思い余ってある時、この坊さんは、秘蔵の一管の尺八を携えて、家老の屋敷へ忍び入って来たことがありました。家老はちょうど御殿へ出仕して留守でしたが、少し頭のおかしくなった坊さんは、池の岸によろよろとそびえ立ってる松の根方に腰を降して、携えて来た尺八を取り出しました。静かにこの屋敷の内のどこかで死んでいるであろう許嫁の腰元の魂に、せめては昔から好きであった、この尺八の音を聞かせてやりたいと思ったのでしたが、やがて歌口を湿して吹き出してきた曲は、泣くように、咽《むせ》ぶように、力ない人間の不甲斐《ふがい》なさを天に訴えているとしか見えません。
「その音色が澄んでね、人の心の中へ溶け入って事情を知らない人が聞いても、しんみりと涙の湧《わ》いてくるような気持がする時分にね、御家老が御殿から帰っていらしたんだよ」
「ほう、誰か尺八を吹いてるな」
 と身につまされるような気持で、家老は馬から降りてしまいました。いつもに似ず、静かに静かに腕を組みながら、ソロリソロリと長い敷石道も忍びやかに、出迎えの人たちも眼顔で制して、居間へはいっても障子の陰に突っ立ったまま、じっと池の方へ聞き耳をたてていました。やっと尺八を吹き終えた坊さんは、笛を袋へ納めると、眼に一杯涙を湛《たた》えながら屹《きっ》と屋敷の方を睨《にら》みつけていました。
「お高! これで俺の気持がわかったろう? どこに眠ってるか知らねえが、成仏してくれよな。行くところへ行きなよ。だが口惜《くや》しかんべえ、なあお高! 人に怨《うら》みがあるものか、ねえものか、鬼になって棚田の家に仇《あだ》を返してやれ! 生き代り生まれ代って祟《たた》りをしてやれ。棚田大膳の家に三代たたぬ間に見ろ! この屋敷にぺんぺん草を生やしてくんど!」
 そして僧はそのまま野原の方へ歩みを移してしまいましたが、涙ぐまんばかりに凝然と耳を澄ませていた、我儘《わがまま》な家老の心に、また途端に残忍とも、酷薄とも言わん方ない気持が蘇《よみがえ》ってきました。こんな生若い許嫁《いいなずけ》があったばかりに、自分のいうことを聞かなかったのかと思うと、怒りに眼が眩《くら》んできたのです。
「怪《けし》からん奴じゃ、無礼千万な! 勝手気儘に執権の屋敷へはいりおって! 宗八、剛蔵、確之進! 追い駈《か》けて行って、搦《から》め捕ってこれへ引き据えエ!」
 青筋たてた悪鬼のような主人の下知《げじ》に、早速家来たちは僧の後を追い駈けましたが、骨強い、おまけに反感を持って、頭のおかしくなっているこの僧が、なかなか家来たちのテゴチにおえるものではありません。主人が主人な
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