そびえ立ってる松の根方に腰を降して、携えて来た尺八を取り出しました。静かにこの屋敷の内のどこかで死んでいるであろう許嫁の腰元の魂に、せめては昔から好きであった、この尺八の音を聞かせてやりたいと思ったのでしたが、やがて歌口を湿して吹き出してきた曲は、泣くように、咽《むせ》ぶように、力ない人間の不甲斐《ふがい》なさを天に訴えているとしか見えません。
「その音色が澄んでね、人の心の中へ溶け入って事情を知らない人が聞いても、しんみりと涙の湧《わ》いてくるような気持がする時分にね、御家老が御殿から帰っていらしたんだよ」
「ほう、誰か尺八を吹いてるな」
 と身につまされるような気持で、家老は馬から降りてしまいました。いつもに似ず、静かに静かに腕を組みながら、ソロリソロリと長い敷石道も忍びやかに、出迎えの人たちも眼顔で制して、居間へはいっても障子の陰に突っ立ったまま、じっと池の方へ聞き耳をたてていました。やっと尺八を吹き終えた坊さんは、笛を袋へ納めると、眼に一杯涙を湛《たた》えながら屹《きっ》と屋敷の方を睨《にら》みつけていました。
「お高! これで俺の気持がわかったろう? どこに眠ってるか知らねえが、成仏してくれよな。行くところへ行きなよ。だが口惜《くや》しかんべえ、なあお高! 人に怨《うら》みがあるものか、ねえものか、鬼になって棚田の家に仇《あだ》を返してやれ! 生き代り生まれ代って祟《たた》りをしてやれ。棚田大膳の家に三代たたぬ間に見ろ! この屋敷にぺんぺん草を生やしてくんど!」
 そして僧はそのまま野原の方へ歩みを移してしまいましたが、涙ぐまんばかりに凝然と耳を澄ませていた、我儘《わがまま》な家老の心に、また途端に残忍とも、酷薄とも言わん方ない気持が蘇《よみがえ》ってきました。こんな生若い許嫁《いいなずけ》があったばかりに、自分のいうことを聞かなかったのかと思うと、怒りに眼が眩《くら》んできたのです。
「怪《けし》からん奴じゃ、無礼千万な! 勝手気儘に執権の屋敷へはいりおって! 宗八、剛蔵、確之進! 追い駈《か》けて行って、搦《から》め捕ってこれへ引き据えエ!」
 青筋たてた悪鬼のような主人の下知《げじ》に、早速家来たちは僧の後を追い駈けましたが、骨強い、おまけに反感を持って、頭のおかしくなっているこの僧が、なかなか家来たちのテゴチにおえるものではありません。主人が主人な
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