党に箕村数人《みのむらかずと》という有名な清節の長老があって、たびたび大臣も勤めた人でしたが、どういう魔が射したものか、この長老が大阪の松島という遊廓《ゆうかく》の移転事件に連座して、疑獄を惹《ひ》き起し、松島事件として一世を騒がせたことがありました。この事件に棚田判事が抜擢《ばってき》されて、裁判長として法廷に臨み、被告を懲役三年半に処す! と厳酷な刑を宣言しているところなどが、新聞を賑《にぎわ》せていたのです。
当年の屋敷の青白い子が、今では堂々たる裁判長に出世して、大政党の長老の罪を裁いているのに、よほど感慨を催したとみえて、たまに子供を連れて、静岡の隠居所へ行ってみると、
「どうだ、なかなか、えらいもんになったじゃないか、あの子も。……こうしてみると、ついこないだまで洟《はな》を垂らしていた坊主とはどうしても見えんて」と、父は眼を細くして一度読んだ新聞を飽かずに、何度でも眺《なが》めているのです。
「そりゃあなた、この子だって東京へ帰って聴診器を持たせたら、立派な先生様ですもんな。親はいつまでたっても子供を五つ六つにしか考えませんけれど」
「そうかそうか、なるほどなア。子供が大きくなるのはわかっても、親は自分たちの年を取るのはサッパリわからんもんだのう」
と笑い話になってしまいました。が、
「棚田のお母さんもさぞお喜びでしょうな?」
と聞くと、
「おや、お前はまだ知らんかったかな? あの人はもう大分前亡くなってしもうたが。おいおい、あれはいつ頃だったかいな? 棚田のお母さんの亡くなったのは」
と父は母に記憶を求めているのです。その時初めてこのお母さんも他界していることを知ったことでしたが、父親の死が変死でなかったように、この母親の死もまた何の不思議もなかったように覚えていました。
その頃に一度私は大村へ行ってみたことがあるのです。と言っても、わざわざ出かけて行ったのではありません。ちょうど長崎医大で開かれた学会へ出席したついでに、長崎からは眼と鼻の先ですから、足を伸ばして大村まで行ってみたことがあるのです。
駅前の讃岐《さぬき》屋という旅館へ鞄《かばん》を預けて、昔私が通っていた小学校や、その学校の前から街道続きで、昔の藩主の城跡や、仲間とよく遊んだ老松の海風に哮《ほ》えているお城下の海岸や、私の家が住んでいた上小路の旧宅なぞへ道を辿《たど》って
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