天草の春
長谷健

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)三角《みすみ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)この日は[#「この日は」は底本では「この月は」]
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 三月二十三日
 きのう越後からの便りに、越路はまだ深い雪の中で、春まだ遠くとあつたが、肥後路の季節は早く、菜の花も桜も今や満開、らんまんの春の姿である。しかしこの日は[#「この日は」は底本では「この月は」]珍しく北の風が出て雲低く、さきがけた春の出ばなをくじかれた思いで、天草への船が三角港を出帆したころは、粉雪さえ落ちはじめ、デツキに立つてもいられない程であつた。けれども船数の少い航路のこととて、船室はぎつしり満員なので、レインコートのえりをたて、僅かに風をふせぎながら右舷のふなべりにこしかけていた。北風が強いので、人々は船員の止めだてを聞かず、ともすれば左舷に片寄るので、船は傾き、気が気でない。しぜん旅なれない人たちだけが、その危さにおびえて、右舷に集るばかりであつた。
 天草へは、はじめての旅だ。だから天草の地図にもうとく、おおよそ小さな島が二つ並んでいる所であろう位の地理的認識しか、持つていなかつた私である。ところが、三角《みすみ》港を出た船が、十分も航程を経ない中に、おびただしい島々のあるのに、私は先ず驚かされた。しかもその島々の自然的配置が面白く、恐らく火山島だろうと思われる、奇石怪岩がいたるところに散在して、後で聞いたが、天草松島といわれているのも、さこそとうなずかれる風景であつた。船は、無人島らしい島々の間を紆余曲折していく。私は、移り行く風景の面白さに、時に松島を思い[#「思い」は底本では「思ひ」]、時に瀬戸内海を航行した日のことを、思い出しながら、吹きつける北風と、舷側に散る水沫をさけていた。
 大矢野《おおやの》島と千束《せんぞく》島(この島は天草の乱の策源地といわれている)の間をぬけ、やがて上島近くにさしかかると、雲はいく分切れ、風も弱まつたようであつたが、波はいよいよ高く、時にもり上がるうねりに乗上げると、からだの中心を失いそうにさえなる。同時に、さつと白い飛沫がとび散る。外海――といつても有明海だが――に出ると、波のうねりは一段と高くなり、この位の連絡船では、とてもおし切れそうにも思われない。本渡町までの予定を変更して、大浦に上陸させようとした船会社の処置もうなずけるのであつた。
 船室の中に二十四五の、下手な化粧の女がいた。船員が右舷に行つてくれ、といくら頼みこんでも一人位いいじやないのといつて、いうことを聞かないその女は、眼鏡をかけ、いわゆる現代的な女のタイプであつたが、どこからか、大浦上陸後のニユースをもつて来て、しきりに甲高にしやべりちらしていた。大浦から本渡までのバスが来ないですつて、橋がこわれているから、歩かなくちやならないわ、こまつたな、本渡まで七里よ、あんたどうする、歩いたら七時間かかるわ、真夜中までかかるわ、困つたな、などと、一人ではしやいでいるが、そのさわざ方があまり大げさなので、乗客も退屈しのぎに聞いている程度で、そう困つたような顔もしていなかつた。乗客の一人が私に耳うちした。あいつ左舷から動かないので、船員にだまされたんですよと。彼女の動かないその場所が、上陸第一のところだそうだ。そこにいて第一ばんに上陸したつて、バスはありませんよ、と、いわれたに違いないと、私のよこの男は判断したもののようであつた。
 船は、大浦の岸壁についた。
 女のもたらしたニユースなど、誰も本当にしていなかつた。船が岸壁につくやいなや、乗客は目の色を変え、一せいにスタートを切つた選手のようなスピードで、かけ出した。桟橋はために大ゆれにゆれたが、人々は少しも顧慮しないもののようであつた。バスは一台しかなく、三十五六人も乗れば、満員になるというので、それは七里の徒歩を賭けた速さといつてよかつた。二等の客が上甲板から飛下りようとして船員にはばまれていた。船員の船客扱いというものは、えてしてそんなものだ。だから私も二等なんかに乗らなかつたのである。(ついでながらいつておくが、戦前は二つの船会社が競争して、客サービスを競つたものだそうだ。船賃も安かつたし、船客に手拭のサービスまでしたそうだが、今はそんな話は、ゆめのようなものである)
 先着のものから数えて、私は二十五六人目位の位置を占めた。これなら先ず大丈夫だろうと安心していると、そこここで、もうすでにこの土地の人が十数人切符を買つているらしい、と、いい出した。このバスに乗れなければ、七里の徒歩というわけで、人々の不安は去らない。その中、件の女が、つかつかと切符売場の口にいつて、何かごそごそやりだした。如何にも物なれているところ、天草の女のようで
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