ある。すると、三番目あたりに位置していた男が、並んでいるぞ、並んでいるぞ、と、その女にどなりつけた。女はふり向きもせず、第一番の切符をせしめようと、しきりに切符売に交渉している。三番目の男は、がまんならなくなつたらしく、つと後続の人々をふりかえり、みなさんどうですか。その女のわりこみを許しますかと相談をもちかけた、だめだ、ひつこめ、この心臓女、などの罵声がとび出す。さすがに女もそれには抗しきれなかつたものとみえて、しぶしぶ引さがつていつた。
私は三十六番目の切符を手にいれた。さいごの一枚にあたつていた。若しもあの女のわりこみを見逃していたら、私はついに七里徒歩組に編入される危い瀬戸ぎわであつた。
須子の橋がこわれていることだけは、ほんとうであつた。そこまで三十分の徒歩はしかたがなかつた。しかし私にはかえつて幸というものであつた。春の早い天草の海浜を歩くことは、もうけものでさえあつたのだ。
三十六人は、思い思いに須子のあたりに集結していた。あぶれた人たちも、トラツクを交渉してみたり、しかたがない歩くのだと、あきらめたりして、私たちの後から続々やつて来た。
バスが来た。私たちは番号札順にならんで、秩序よく乗つた。もちろん私がさいごで、バスのドアはしまることになつていた。ところが、車掌が一寸油断しているすきに、例の女が、私の後から乗つて来た。車掌は、後ればせながら、切符は、といつて女に求めた。ないのよ、といつて、女はすましている。なければだめですよ。はいれるからいいじやないの。だめですよ。三十六人にきまつているんですよ。一人位いいじやないの、だつてあんなにたくさんの人があぶれているじやありませんか。乗れるからいいじやないの、乗れるのに乗せないという法があるの。問答は果てそうにない。運転手はその問答を乗せたまま走り出した。結果はわかつていた。女は完全に勝つたのである。心臓のつよい女だな、と、ささやく乗客の声も聞えぬものの如く、女はすでに乗込んでいる男から、うまくやつた、と、ほめられ、いかにも得意そうに、人込みの中におし分けてはいるのであつた。
やはり天草の女に違いなかつた。
バスは、主として海岸ぞいに走つた。道路の凸凹がはげしく、私はしばしば天井に頭をうちつけなければならなかつた。右手遙かな海上の白い波頭は、あきらかに時化ていることを説明しているもののように、歴然とバスの中からも受取れた。赤崎、下津江、大島子と、海岸ぞいに走るバスは、時に島の部落の中を過ぎる。赤い椿の、わら屋根の上におおいかぶさつた南国風景が、青い海を背景にして、きわめて印象的だ。時には、古がわらのひさしを、ところどころくれないに色どつているのを、一瞬バスの窓から垣間みることもある。
子供たちが、椿の花輪をうちふりながら、私たちを見送つてくれる。家の広場に[#「広場に」は底本では「広間に」]落ちた紅椿の間のえさを、あさり歩くにわとりなど、一寸かめらにでも収めたい一こまであつた。
ともかく椿の多い島である。
夕刻、大浦を出て二時間ばかりで、下島《しもしま》への開閉橋を渡つた。町は思つたより奇麗であつた。この夜、蒼州湾に投宿した。
三月二十四日。
ゆうべ、土地の青年たちと、夜遅くまで座談会をしたので、思わず朝寝をしてしまつた。八時ごろ起出てみると、稀に見る静かな朝の光と、空の青さであつた。
毎日新聞のH氏のきもいりで、富岡町に行く手はずをととのえてもらい、十時のバスに乗つた。天草には、汽車電車の便はまつたくない。五人乗りの古風な馬車と、更生車と称する自転車にくつつけたサイドカー(?)が、近距離に行く交通機関であり、島中を縦横にかけめぐるのは、モーターバスだけである。縦横にかけめぐるといえば、いかにも便利のように聞えるが、南端の牛深には、日に一回しかその便がなく、富岡へも日帰りするつもりで行けば、四時間の余裕しかない。だが、交通機関についての意見は、しばらくおくとして、とりあえずその四時間を生かすことにした。
バスは、主として海岸線に沿つて、丘陵から丘陵へと上下しながら進む。沿道は、きのうの上島より、もつと春たけている感じだ。桜はも早満開を過ぎて葉桜に近く、桃の花もすでに花弁が色あせかけている。その間にあつてなしの花が、端麗な色彩を、背後の海の青さに、一そう引立たせている。びわの新芽の青さを、私はしばしばボケの花ではないかと、注意深く眺めたものである。
麦の穂も、ほとんど出そろい、花期の長い菜の花大根の花には、もう青い実がむらがりついている。
グリンピースや蚕豆が、この島の名物の一つと聞いていたが、さすがにその評判に違わず、白い蝶形花冠が、旅人の目をなぐさめる。日に一回しか通らないバスは、村人にとつては珍しいものの一つででもあろうか。折から、さ
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