可愛い山
石川欣一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)可愛《かわい》い
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神経衰弱的|厭世観《えんせいかん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いやみ[#「いやみ」に傍点]
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岩と土とからなる非情の山に、憎いとか可愛《かわい》いとかいう人間の情をかけるのは、いささか変であるが、私は可愛くてならぬ山を一つもっている。もう十数年間、可愛い、可愛いと思っているのだから、男女の間ならばとっくに心中しているか、夫婦になっているかであろう。いつも登りたいと思いながら、まだその機会を得ぬ。今年の秋あたりには、あるいは行くことが出来るかも知れぬ。もっとも山には、登って見て初めて好きになるのと、麓から見た方がいいのとある。私が可愛いと思っている山も、登って見たら存外いやになるかも知れぬ。登って見て、詰らなかったら、下りて来て麓から見ればよい。
この山、その名を雨飾山《あまかざりやま》といい、標高一九六三米。信州の北境、北小谷《きたおたり》、中土《なかつち》の両村が越後の根知村《ねちむら》に接するところに存在する。元より大して高い山ではないし、またいわゆる日本アルプスの主脈とは離れているので、知っている人はすくなかろう。あまり人の知らぬ山を持って来て喋々するのはすこしいやみ[#「いやみ」に傍点]だが、私としてはこの山が妙に好きなので、しかもその好きになりようが、英語で言えば Love at first sight であり、日本語で言えば一目ぼれなのである。
たしか高等学校から大学へうつる途中の夏休であったと思う。あたり前ならば大学生になれた悦《うれ》しさに角帽をかぶって歩いてもいい時であるが、私は何《な》んだか世の中が面白くなくって困った。あの年頃の青年に有勝《ありが》ちの、妙な神経衰弱的|厭世観《えんせいかん》に捕われていたのであろう。その前の年までは盛に山を歩いていたのだが、この夏休には、とても山に登る元気がない。それでもとにかく大町まで出かけた。気持が進んだら、鹿島槍にでも行って見る気であった。
大町では何をしていたか、はっきり覚えていない。大方、ゴロゴロしていたのであろう。木崎湖《きざきこ》あたりへ遊びに行ったような気もするが、たしかではない。
ある日――もう八月もなかばを過ぎていたと覚えている――慎太郎さんと東京のM呉服店のMさんと私とは、どこをどうしたものか、小林区署のお役人と四人で白馬《しろうま》を登っていた。如何《いか》にも妙な話だが、そこまでの時の経過を忘れてしまったのである。Mさんは最初の登山というので元気がよかった。お役人は中老で、おまけに職を帯びて登山するのだから、大して元気がよくもなかった。慎太郎さんと私とは、もうそれまでに白馬に登っていたからばかりでなく、何だか悄気《しょげ》ていた。少くとも私は悄気ていた。慎太郎さんはお嫁さんを貰ったばかりだから、家に帰りたかったのかも知れぬ。
一行四人に人夫や案内を加えて、何人になったか、とにかく四谷から入って、ボコボコと歩いた。そして白馬尻《しろうまじり》で雪渓の水を徒渉する時、私のすぐ前にいた役人が、足をすべらしてスポンと水に落ちた。流れが急なので、岩の下は深い。ガブッ! と水を飲んだであろう。クルクルと廻って流れて行く。私は夢中になってこっち岸の岩を三つ四つ、横っ飛びに、下流の方へ走った。手をのばして、流れて行く人の手だか足だかをつかまえた。
さすがは山に住む人だけあって、渓流に落ちたことを苦笑はしていたが、そのために引きかえすこともなく、この善人らしい老人は、直ちにまた徒渉して、白馬尻の小舎に着いた。ここで焚火をして、濡れた衣類を乾かす。私はシャツを貸した。
一夜をここで明かして、翌日は朝から大変な雨であった。とても出られない。一日中、傾斜した岩の下で、小さくなっていた。雨が屋根裏――即ちこの岩――を伝って、ポタポタ落ちて来る。気持が悪くて仕方がない。色々と考えたあげく、蝋燭《ろうそく》で岩に線を引いて見た。伝って来た雫《しずく》が、ここまで来て蝋にぶつかり、その線に添うて横にそれるだろうとの案であった。しばらくはこれも成功したが、間もなく役に立たなくなる。我々は窮屈な思いをしながら、一日中むだ話をして暮した。
次の朝は綺麗に霽《は》れた。雨に洗われた山の空気は、まことに清浄それ自身であった。Mさんはよろこんで、早速|草鞋《わらじ》をはいた。しかし一日の雨ごもりで、すっかり気を腐らした私には、もう山に登る気が起らない。もちろん大町へ帰っても、東京へ帰っても仕方がないのだが、同様に、山に登っても仕方がないような気がする。
それに糧食も、一日分の籠
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