一ノ倉沢正面の登攀
小川登喜男

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)湯檜曾《ゆびそ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|米《メートル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「山/品」、第3水準1−47−85]
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一行 小川、田名部、高木(力)
一九三〇年七月十七日(曇・午後夕立)
一ノ倉沢出合(六、〇〇)―雪渓下部(七、〇五)―雪渓の裂け目(七、三五)―雪渓上部(八、二五)―一枚岩の岩場中の台地(九、二〇―九、四〇)―水のあるリンネ上の台地(一、〇〇―一、二〇)―尾根上の岩塊下(三、〇〇)―同岩塊のチムニー上の広い台地(三、三〇)―国境線の尾根(六、五〇)―南ノ耳露営(七、四五)翌朝西黒沢の道を下る。
[#ここで字下げ終わり]

 暑い日中を重いルックザックに汗を絞られつつ、谷川温泉の方から湯檜曾《ゆびそ》を通って、やっと一ノ倉沢に着いたのは四時頃であった。岩場の様子についてまったく知る所のなかった私たちは、その豪壮な岩壁を見ると直《す》ぐに、道から近くの所へ天幕を張った。谷川木谷の俎※[#「山/品」、第3水準1−47−85]《まないたぐら》で、大した岩も味《あじわ》えずに失望した自分たちは、この沢の鬱林の上に立ちめぐらされた岩の、陰惨な相貌を望むに及んで、新しい岩への熱情と、登攀への高揚せる意志とを吹き込まれた。そして夕闇が全く岩壁を飲込んでしまうまで、暗い壁を幾度も眺め返しつつ、快い空想に耽りながら、いそいそと準備を整え寝に就いたのだった。
 その夜は思いがけない蚊の襲撃に悩まされ、破れがちな微睡《まどろみ》の中に明けた。空はどんより曇っており、霧は昨日よりも低く岩壁の上に垂れ下がっていたものの、ともかく岩の様子を調べようと思い、飯を済ませると直ぐ天幕を出た。
 沢石伝いに約三十分ほど行くと、右から小さい沢が落合い、そこから狭い岩床となる。その所を右岸の人の踏んだ跡を通って過ぎると、沢は再び石が累積し幾分広くなって、右岸から急な沢(一ノ沢)が落込んでいる。そしてそのすぐ上手《かみて》において、既に雪渓の下端にぶっつかった。夏でも雪があるという事はかつて成瀬岩雄氏から聞いてはいたが、高々六、七百メートルのこの辺にこのような大残雪を見出した事は意外であったし、また嬉しくもあった。
 雪渓の下端は洞窟のように融け込み、大きな口を開いてのしかかっているので、いずれかの岩壁を搦《から》んで、すこし上から降りなければならない。両岸はともに草の混った急傾斜である。自分たちは右を登り、念のためロープを付けて雪渓へと下った。冷《つめた》い朝の微風は心地よく頬をなぶる。時々前面の岩壁を見上げながら、堅雪の上をポツポツ登って行くと、やがて衝立岩《ついたていわ》の真下辺りで、二ノ沢の落込む少し上で、雪渓はくびれたようになって幅一|米《メートル》半ほどの裂罅《れっか》が雪渓を上下に切り裂いている。
 自分たちは、是非《ぜひ》奥の壁に近づいて見たいと思っていたので、うまく飛越せはしまいかと狭まそうな所を捜して裂罅の縁を歩いて見たが、向こう側がやや高いし、蒼白く裂け込んでいる深いその中を覗《のぞ》くと、余りいい気持がしないので暫《しばら》くためらっていた。しかし自分が右手の一枚岩の岩場を下から大きくまいて上へ出るルートを考えていると、田名部が「ブロックを作ってロープで降りようじゃないか」と提議したので、ようやく自分も本で見たその技術を思出し早速取掛かる事にする。裂罅の右端へ行って見ると、充分雪の厚みはあり十米ほど下の岩場の工合もいいので、そこを選んでピッケルを振う。間もなく方二尺位のブロックが切られ、リングに通してロープが垂《たら》されると、最初に田名部が巧みに降りて行く。そしてルックザックを下して、次に高木が、それから自分が堅雪の壁を楽に降り、容易に下の岩場に立つ事が出来た。思いがけなくも此処《ここ》で、今まで試みた事のない技術をうまく使ったという喜びが、皆の顔を明《あかる》くした。
 再びロープに結び合うと、その岩場を左上へと登り、五十米ほど行ってから裂罅の小さそうな所を撰んで上の雪渓の傍へ下る。そこの裂罅は五十度あまりの傾斜なので十ほどステップを切って雪渓の表面へ出た。
 ブロックを使った事に対し、何かしら得をしたような気持になってすっかり気をよくした三人は、昨夜の不愉快な蚊の事や、寝不足も忘れて、上部の雪渓を調子よく登って行った。雪渓の傾斜は段々増し、その最上部は相当急でもあり、表面が融け固《かたま》ったのか、あるいは激しい雪崩《なだれ》の圧力のためか、氷の
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