ように蒼白く光っていて靴鋲《ネール》が充分喰込まないような所もあって、ピッケルを持たない二人のために二、三度確保したりする。雪渓の最後は巨大な雪塊が群立ち、写真で見る氷河の感を与えて自分たちを喜ばす。この小さいセラックスのような間を抜け出て、ようやく奥壁の岩場の最下端に達する事の出来たのは八時半頃であった。これから上は見上《みあげ》るかぎり傲頑《ごうがん》な岩壁である。僅かな休息の時を採ると、直ちにすぐ上に拡《ひろが》っているなめたような一枚岩の大きな岩場を、縦に走っている岩の節理に導かれながら登って行く。
この一枚岩のきれいに磨かれた岩場は、三十度あまりの傾斜なので、気持よくぐんぐんと登り、さして困難なところもなく程なく百米ほど上の台地に達した。丁度そこは上のリンネ(本沢)から水が辷り落ちている所なので、第一回の食事を摂《と》る事にする。上の霧は盛んに東へと巻いているが、少しく雲切がしては薄日がさすので、のんびりと美しい岩の相貌を楽しむ。白く見え隠れして流れる湯檜曾《ゆびそ》川の森林帯から、今まで登って来た沢や雪渓が足下まで延上っている。左右の懸崖は六十度ほどの角度を以って落込み、自分たちは僅かに前面を打開かれた大きな鉄の箱の底にいるような感さえする。三、四十羽と群なす岩燕は、この巌の大伽藍を守護する小さな精霊たちのように、見なれない自分たちを巡って目前の空中を飛び交う。
やがて充分な休息の後、張切った気持で新たに登攀が始められる。左に滝沢の逆層で切落された壁を見ながら、この一枚岩の岩場を登りつめると本沢のリンネの入口に達する。そこからは急に岩質が変って、角々した岩場になるが、すぐ正面は小さいながらも壁をなし水が滴っていてちょっと厄介に見えたので、左に割込む細いリンネの方へ廻り、それから右上へと登路をとる。暫く登りその上に出て、本沢のリンネを覗くとそれは深く刳《えぐ》れていてそれについて行く事は出来ないので、そのまま上の草の混った胸壁《バットレス》を登り続ける。
その辺の傾斜は六十度余で、岩角で確保しながらほとんど平になって見える先ほどの雪渓や一枚岩の岩場が銀灰色に光って見える。時折雪渓の一部が轟然《ごうぜん》たる反響を残して崩れ落ちる。岩を掻《か》くネールの音や、不安定な石を落す冴えた音だけで、緊張した静けさが続く。
やがて右へとトラヴァースし暫くして、リンネの上の小さな岩塊を廻り、斜上気味に狭い棚を行くと、水の滴《したた》っている比較的大きなリンネへ達する。本沢のリンネはすぐ横に見下せるが、ちょっと落込んでいて手強《てごわ》そうなので、すぐとそのリンネにルートをとる事にする。
そのリンネはかなり急であるが、手懸《てがかり》の多いガッチリとした岩なので、緊張しながらも愉快にはかどる。やがて右の岸壁に入っている急な棚状の箇所を行きつめると、リンネは一枚岩の岩壁で囲まれて、三、四十米の外の開いた悪いチムニー状の所となる。中頃までチムニー登り[#「チムニー登り」に傍点]によって登り、それからは狭い裂け目について僅かな手懸りを求めて行く。裂け目の最上部はオーバーハングであり、二番目の者が確保する所もよくないので、水で濡《ぬ》れたその箇所を左上へと切抜ける時には、かなり激しい緊張を余儀なくされた。
ようやく無事にこの難場をおえ、少し上の小さい緩傾斜の台地に落着くとすぐに食事にする。霧は相変らず辺りをかすめて巻上り、目近かに見える烏帽子《えぼし》型の岩峰や、尾根尾根に並び立つ尖峰を薄くぼかして、奇異な景観を造る。足下には霧のうすれた間から燻《くす》んだ雪渓がぼんやりとその姿を現す。
意外に時間を喰いそうなので、そこに心ばかりの積石を積むと、すぐに動き始める。それからは暫く、草付の混った岩場を右上へと縫うように登って行く。やがて小さな岩塊を右に廻って上に出て見ると、赤黒い大きな胸壁が行手を遮《さえぎ》っているのに面した。前面及び左右ともに直立しており下から見ると、ほとんど取付く事も出来ないように思えたが、近付いて見ると尾根の行き尽した正面の右に入っている一本のリンネが、唯一の可能なルートを示している。尾根は両側のリンネへ急角度を以て落込んでいるからどうしてもそれにルートを取らなければならないと思った。胸壁の下に来て見ると、そのリンネは深く十米ほどのチムニーをなしているらしく、その入口まで尾根の行き尽した所から横に深い裂け目が走っている事を知って喜んだ。先ず裂け目の安全な手がかりに頼って、ほとんど足場のない一枚岩を膝の磨擦で助けながら、十米ばかりトラヴァースし、チムニーの中に身体を押込む。チムニーの入口はやっと二人入れ得るほどなので、二番目の者がその足場に立つと、すぐに自分はチムニー登り[#「チムニー登り」に傍点]でもって登
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