って行った。チムニーの出口は具合よくなっていたので楽に上の広い草の生えた台地に出る。一先ずルックザックを引上げ、皆その台地の上に立つと、軽い気持になって暫く憩う。
 既に三時半であり、露営する用意もなくその日の中《うち》に谷川温泉へ下る積りの私たちは、上の解らない岩壁を控えて、幾分の焦躁さえ感じた。やがて乱れ飛ぶ霧に、せき立られるようにして立上ると、台地のすぐ上を登って行った。この壁は思ったより手強かった。岩は堅く緊《しま》っているが、手懸は小さく足場は少い。台地から五十米ばかりの間、二カ所の難所に極度の緊張とバランスとを要求せられる。
 ようやく自分がそれをやり終え、二番目の高木が第一の難所の上の足場に立った時、先ほどから怪しく密集していた霧は、遂に水滴と変った。来たなと思う間もなく、豪雨は沛然《はいぜん》として乾いた岩を黒く染めて行く。暗い霧の中に紫の電光が閃《ひらめ》いて、激しい雷鳴がうす気味悪い反響を周囲の岩壁にたたき附ける。強い雨足は岩に当って白い沫《しぶき》をあげながら、無数の細い滝となって乱れ落ちて行く。身を寄せる岩陰もない岩壁に、術《すべ》もなく小鳥のように立ちすくんだ三人は、ロープを引緊めたまま言葉もない。濡れそぼるままに懸崖《けんがい》に寄り添って、身のまわりを立籠める灰色の霧を見詰めていると、何かしら無限の彼方に吸込まれるような無気味な感がする。しかしそれも段々と快い放心に変って行く。
 随分長い時が経ったように思われた。やがて雨足も弱って霧が明《あかる》くなり、途切れ始めた雲の中に、遠く笠ヶ岳の頭が夢のように浮き出した時は救われたように感じた。間もなく市ノ倉岳の斜面に薄日がさすと、ほっとした明い気持になって、再び行動が開始され、ロープがたぐられる。もう八時間もの登攀を続けているので、この濡れた岩は実際困難であった。幾度かロープを引緊めては、かなりの時間を要して登って来る。
 漸く胸壁の上の草の生えた緩斜面へ着いた頃は夕暮近く、霽《は》れ間に見える陽に照らされた山の色は非常に冴えて、夜の近い事を指示していた。最後の飯を分ち、暫く休むと、そそくさと濡れてこわばったロープを引ずりながら上へと急ぐ。岩場は終っていた。しかし急な草付は濡れたためか辷り勝で、同時に行動する事を許さない。やがて草は笹に変った。最後の岩塊を避けて右へと抜け出ると、急に傾斜がなくなって、漸く自分たちが国境線の尾根筋に出たことを知った。
 巻上がる霧の中にぼんやりと浮ぶ茂倉岳の肩の辺《あたり》を、赤々とうるんだ夕陽が沈んで行く。ロープから解放されて、長い闘争の後の限りない安易に浸りながら、固くこわばったロープを巻き収めつつ、じっと沈んで行く夕日を見つめていると、激しい疲れと同時に何かしら淡い哀愁を覚える。
 夜の帳《とばり》は迫っている。短い休息をとると、山の脊に付けられた歩きにくい道について、南へと急ぐ、漸く南ノ耳に辿《たど》り着いた時は、全く夜の闇に閉されて、遂に道を失ってしまった。わずかに標識をすかして見て、これが谷川岳の耳二つだという事は確められても、短い草付と荒れた土肌のために道は消えていた。暫く捜してから諦めると、そこで一夜を明す事に決め、小さな岩陰に三人身体をつけてしゃがみ込む。
 ずぶ濡れになった自分たちには、その一夜は楽ではなかった。しかし二人は濡れない上着を持っており、自分は純毛のシャツだったのでかなり助かった。ルックザックの底に残っていたわずかな菓子などを片附けて落着くと、山の歌が誦《くちずさ》まれる。そしてこの登攀《とうはん》の喜びや、心に生々と甦《よみが》える岩の回想を語り合う。やがて激しい疲れにうとうとすると寒さが揺り起す。時たま暗い霧がうすれて月影がにじむ。
 こうして一時間おき位に時計を出して見ては、ひたすらに光に焦《こが》れながら、思出多い一夜を過して行った。
 翌朝四時うっすらと明け初めると共に直ぐに道を捜し、道の導くままに西黒沢へと下って行った。そして早朝暖い陽を浴びて湯檜曾の温泉へと達し得た。

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〔註〕市ノ倉沢側はこの谷川岳東面の岩場の中でも最も大きく、かつ複雑なものであって、興味ある未登攀のいくつかのルートを蔵しており、これからの研究に待つ所大であるが、それについても大体著しい沢(多くリンネ乃至ルンゼであるが)その他の名称を定めておく事は、記録をとる上にも、これから遊ばれる人々にとっても必要な事と思われる。自分は今までの諸記録、殊《こと》に『関西学生山岳聯盟報告』第二号のスケッチマップ、及び『山と渓谷』第九号の黒田正夫氏のものを参考とし、自分たちの観察した所に基いて概念図を作って見た。この中《うち》一ノ沢、二ノ沢、衝立《ついたて》沢の方面は未だ自分の知らない領域であり、滝沢は
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