二つの松川
細井吉造
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大平《おおだいら》
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かわいい二本のレールは、乱雑に積み重ねられた伐材の中に消えていた。あわてて二、三尺の赤土をかき登ると、思いもかけなかった大道がかなりの急カーヴを描いて目の前にあった。大雨の跡をしのばせる水たまりが諸所に光って、湿った白砂の上には太いタイヤの跡が……。大平《おおだいら》街道だ。道ばたの切石に腰をおろして、こうした山歩きの終わりにはだれもがするように悠々とパイプに火を点じて、FINE の煙文字を蒼穹《あおぞら》に書いた。
われわれの物ずきに近い足跡を語る前に、まずその地理について説明を加えなければならぬほど、そこは辺陬《へんすう》に属する場所であり、同時に山の持つ秘密な境地であったかもしれない。……中央アルプスを思い切って南下する大平街道は、木曾と伊那とが有機的につながりを持つ唯一の廊下《コリダア》だ。飯田からこの廊下伝いに行くと、一脈の藍流が街道に沿うて走っているのを発見する。その流れは市之瀬橋で急角度に北転してさかのぼること二〇キロ余り、念丈ガ岳西北面の御料林の中に没している。松川! それがこの谷の名称だ。だが、念丈ガ岳の東側からも同じ松川の名称を冠された一条の峡谷が、東南東に山を割っている。この方は飯田から十二キロも北上した所で、ともに天竜川への貢物《みつぎもの》となっているのだ。二つの松川が、地形図の上で黙示するすばらしい岩壁《フルー》、連続する瀑布、三角州《デルタ》のような広い磧《かわら》、塗りつぶしたような奥深い原始林などによってわれわれを妖《あや》しくひきつけてからどのくらい日がたったことであろう。僕が大平街道でギャソリンのにおいをかいだ時に満足なる終了を味わったのは、そのような個人的な要素が多く働いていたのかもしれない。
双生児《ふたご》のようなこの谷の区分は、前者を飯田松川、後者を片桐松川とする土地の呼称に従うのが一番賢明な方法だろう。われわれは片桐から入って飯田に抜けたのである。飯田松川に比べると、三分の一の距離しかない片桐松川ではむしろ惨憺《さんたん》たる悲歌《エレジー》を聞いたけれども、飯田松川の長流では反対に安逸の浪費をさえ感じた。ペンの旗をどちらからのぼっても、その終局点にあたる念丈ガ岳二二九〇・六メートルの三角点に立てよう。
鋭い南風が、音のない霧の波を念丈の頂にたたきつけていた。たそがれのあせた光がその厚ぼったい霧の裏にポッとにじんでいる時刻だ。頂上は寒い。霧は一切の視線を閉鎖している。だれもが疲れ切っているのだ。だのにわれわれの間には、口に表わすのはむしろ無用であるほどの喜びがみなぎっていた。それはなぜであったか。見たまえ。実に須臾《しゅゆ》の間であったが、風の鋭利な刃がしつこい霧の幕をズタズタに引き裂いて、やきつくようなわれわれの目の下にひねくれた片桐松川の水の輝きがあったからだ。苦闘二日のあの惨虐な谷の姿が!
きのう、片桐の部落を離れるころ、澄明な空気は全く熟して、蒼い穹窿《きゅうりゅう》は太陽の送る光のミサに氾濫していた。だのにりっぱな道が尽きて磧に下りついたころには、西南から流れる雲が天壇を隠蔽《いんぺい》して湿った風が狭い谷の中を吹き過ぎるようになった。そして約五時間の後に辛うじて天幕《テント》を張り終わったころ、可憐《かれん》な小品的野営地はもうもうたる雨足の裡《うち》にすっかり屏息《へいそく》してしまったのである。しかし野営地まではともかく道はあった。もちろんこの道は決して登山者のためにひらかれたものではない。それはところどころ川床の岩に黒ペンキで示された「監視路」の文字が、やがてこの谷にも入るであろうところの、伐木の近きを約束しているのでもわかる。谷の奥の山は、気のつまるほどの黒木におおわれて、既にアルプス的容貌から逸脱しているのだ。だがわれわれの目的は松川の谷を見ることにある。しかも谷の姿は非凡だった。
両岸から入る支流は、ほとんど全部が滝となって落ちている。中央アルプスの伊那側の谷はどれもそうだが、谷の奥になって悪場が出て来る。松川もやはりそのカテゴリーからはずれてはいなかった。下流で見たあの大きな流れがいったん山すそに遁入《とんにゅう》すると、急にくびられたように狭くなって、滝の多い岩壁を露出した「鰐《わに》のあくび」のような形相に一変する。そして奔下する水が、汚濁とは言わないまでもどこか無気味な不透明さをたたえているのは、源流に大きな崩潰《ぬけ》のある証拠なのだ。大ナメ八丁という場所は、烏帽子《えぼし》岳の頂稜から、真南に落下しているユワタル沢の合流点から始まる。わずかの間にすぎないが、花崗岩の一枚岩の川床に、滝と淵の数えきれない連続を、一本の糸で縫
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