いあげたような眺めだった。そんなところでも水そのものの明澄美を汲みとることは困難だったほどである。水の美しさは谷の相をやわらげるけれども、片桐松川では逆に谷の険悪さに朱を入れたすごみを奏しているにすぎない。
うちに貯水池が出来るひどい雨漏り天幕の中で、まんじりとも出来ないこの夜ほど、長さをかこったことはなかった。夜陰、かたわらを過ぎる水の音が急に高まって耳に響いた。しのつく雨の中をラテルネを下げて検分に行くと、たしかに五寸は増水している。谷の上流も下流もまっ暗闇だ。むせぶような叫びは風になぎられる森林の悲鳴で、その瞬間水音は少しばかりかき消されるが、まもなく倍旧の響きを立てて応じて来る。午前一時……そして二時。谷の水音はこの時刻に一番強く響く。やはり丑満時《うしみつどき》で世間が一番静かな証拠なのだ。だがこの遠く深い谷の奥でも、夜陰の静けさが昼間をしのぐものがあるのだろうか。ふと、身震いを誘う鬼気が感じられる。昼も夜もここで聞くものはただ、谷の水の音だけではないか!
このような神経のとがった夜があけて、飛ぶ断雲の切れ目に、希望の光が慰めの微笑を投げてくれた。だからこそ更に七時間もの苦闘を重ねて、ようやく念丈ガ岳の頂に立つことが出来たのだ。野営地から上、踏跡は全く急箭《きゅうせん》の流れに押しまくられて「監視路」の文字も無意識にうちに消え失せた。滝また滝。磊々《らいらい》たる大岩石の堆積、倒木のロウ・ハードル、見上げるような滝となって落ち込む威圧的な支流、コマツ沢の合流点付近では、本支流とも、三つの荒《すさ》んだ滝となって相剋《そうこく》している。やがて見上げるような大くずれの源流、ボロボロの川床、縦横に入り乱れるカモシカ道、スカイラインがじりじりと近づいて来る。森林帯のあえぎが終われば、まばら木立ちに立ち迷う霧の残兵を追って、深い熊笹の波を乗り越え、待望久しかった尾根に出る。脚下の松川は陥没した海の底の地盤のように一挙に遠い世界になってしまった。
里へ下ってから書く山行記録が既にして一つの回想録であるならば、二つの松川の接触点に当たる念丈岳と奥南岳との鞍部で送った甘美なる一夜についての思い出も語らなければならない。森林の領域から解放されたこの乗越《のっこし》は、風や霧の通り道だけでなく北国の鉛色の冬足に追われたツグミの群れが、南信濃から太平洋岸にかけて明るい生活を求めて渡る間道の一つでもあるのだ。中央アルプスの主稜に新雪の閃耀が反映するころになれば、乗越の熊笹の斜面はきつね色にこげるだろう。そうするとほとんど訪う者もなかったこの名もない峠に人の影が急に射《さ》して来る。その人影は、乗越の南斜面からはるかに遠く流れている飯田松川をまっすぐにさかのぼって来て、乗越の北斜面、与田切《よたきり》川源流に面してかすみ網を張るのだ。人間の狡智の前には無心なツグミは毎年くりかえされる犠牲にすぎない。そしてかすみ網を張るために設けられた鳥屋《とや》は、鞍部の一角、奥南岳に寄った小高い場所に、森閑の象徴を凝《こ》らして静まりかえっていた。われわれの求めていた安息所もこれだった。
木と葉っぱと草で作られた、たとえば人類がこの世に初めて作った家というものの原型はこれだったかもしれない。炊事道具と、ふとんと、ランプと、石油かんと、食糧を除いた生活必需品は完全に備わっている。入り口に手ごろの石で囲った炉を設けて、山のように積まれた薪《たきぎ》は、猟人の営みがまもなく開始されることを語っているのだ。念丈から熊笹の切り明け道を下って来たわれわれは、この狩小屋《キャバヌ》を見つけ出すと、どよめきながら走り寄った。そして赤々と火をたいたのである。もしその夜が晴れ上がったならば、満月に近い光芒は、あたりを一層神話めいた環境にしたかもしれないが、山の端をもれる輝きはなかった。そればかりかわびしい一時雨が、狩小屋の戸口に咲くエゾニウのか細い茎をゆるがして過ぎた。しかし昨夜《ゆうべ》の天幕で濡れたものが燃え上がる炎でどしどしかわいて行くのは、心のむすぼれを解きほごしてくれる魔術のようだ。熟睡が待ちかまえていたのは決して偶然ではない。
平凡な美しさをペンに再現することはむずかしい。残る今一つの松川については、僕はこの感を深くするだけである。われわれが出発前推測した通り、飯田松川はその全体を通じて、あふれる平和な優姿《やさすがた》の中に、無量の感慨をこめてくすぐるようにささやく愛の言葉を持っていたのである。朝、乗越で東へ行く友と別れて、露に濡れた熊笹の中をまっしぐらに下ると、鋲靴の下で可憐な水のほとばしりに触れた。早くも展開した広やかな谷、それから無色に近い水の色、深淵に泳ぐ岩魚《いわな》の姿、みずみずしい大葉柳や楢《なら》、椈《ぶな》の森林、片桐松川の鬼面に脅
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