案内人風景
百瀬慎太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)概《おおむ》ね

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|噛《かじ》り

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]
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 日本アルプス地方に於て「登山案内者」という職業的な存在が認められたのは、恐らく今から二十二、三年前からの事だろう。
 それ以前のいわゆる日本アルプス探険時代ともいうべき頃の登山者たちは、概《おおむ》ね、猟師とか、岩魚《いわな》釣りとか、杣人《そまびと》の類か、または、かつて陸地測量部の人夫として働いた事があるというような人を、辛うじて探し出して、頼むべき伴侶とする外はなかったのである。そしてそれらの案内たちは、誠に愛すべき純朴な山人《やまうど》であった。指を屈すれば、先ず、上高地の嘉門次、黒部の品右衛門、牧の喜作、中房の類蔵、大町の又吉、等、総ては今は故人となってしまった。品右衛門も、嘉門次も、共にその一生涯を岩魚釣りで過ごして死んでしまった。喜作は大正十一年の二月、爺ヶ岳裏の棒小屋沢に羚羊《かもしか》猟に行ってた時に、雪崩《なだれ》の下になって、その息子と、愛犬と一緒に死んだ。皆が、山人らしい死に方でこの世を去ったのだ。
 芦峅《あしくら》きってのその強力で冬の登山者に取って重宝がられたあの福松も、去年一月の劍のアクシデントで無惨に逝《い》ってしまった。
 喜作の最後に就いては、当時猟友として行を共にして奇《く》しくも生命を助かった上高地の庄吉が詳しく物語ってくれる。誰でも上高地を訪ねた人が、もし機会があったなら、彼を訪ねて炉辺に榾火《ほたび》を焚《た》きながらこの物語を聞いて御覧なさい。相応《ふさわ》しい山物語りにホロリとする所があるだろう。その時、半身を雪に圧されて救助隊の来るまでの一昼夜を動かれぬままに観念してすごした苦しさを思い出しながら、沁々《しみじみ》と語る。喜作はかすかに、ウーンと※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]《うな》っただけだった。私は数年前の冬、高瀬の奥で喜作が猿の皮を無雑作に頸《くび》に巻き付けた姿で、獲物《えもの》の羚羊の皮の枠張《わくばり》に余念なかった姿を想出《おもいだ》して、その最後の「ウーン」といったという断末魔に猿を連想する猟師たちは決して「猿《さる》」と呼ばず「猿公《えんこ》」と呼ぶ迷信があるからかも知れない。
 福松の姉は、黒部の平《たいら》の弥曾太郎の女房だ。頼もしかった弟の死を、どんなに諦めようとしても諦らめられぬと愚痴《ぐち》る。劍の小屋の源次郎が当時の話をしてくれる。
 その骨肉や、先輩たちの、「山師は山で果てる」言葉通りの死を痛みつつも、やはり山から離れられない所に山人の宿命がある訳だ。
 私はここに、登山案内史的な記述をしようとするのではないが、近来の素晴らしい登山の発達というよりも、登山熱が、如何《いか》に彼らの姿を変えたかと考える時に、いささか懐古的な気持にならざるを得ない。いわば第二期に位する者に、現在、芦峅の平蔵があり、大山村の長次郎があり、音沢村の助七があり、中房の善作があり、大町に玉作、林蔵、が生きていて、なお往々、登山者の案内役を務めてはいる。けれども、暫《やが》てその人たちも、劍の平蔵谷に、長次郎谷に、そのモニューメントを残して各々《おのおの》山人らしくこの世を去ってゆくのであろう。登山者は今少数の彼らに依って、僅かに昔ながらの山人の片鱗《へんりん》を見る事が出来るであろう。
 山人にとっては余りにテンポが早すぎる現代である。
 紺の脚袢《きゃはん》、蒲《がま》はばきは、ゲートルに、草鞋《わらじ》は、ネイルドブーツに、背負梯子《しょいな》は、ルックサックに、羚羊の着皮は、レーンコートに移り変る。
 有明口や、白馬口方面には仲々モダン化した案内人を見受ける。彼らは手製の荷杖を捨てて、ピッケルのマークを誇り合うようにさえなった。有明の中山彦一はシェンクのピッケルを有《も》ってるぞという話まで伝わって来る。
 けれども結局山人である彼らにとっては登山者の知識、技術、セオリー通り追付いてゆく術《すべ》はないのだ。
 登山者は実に多種多様だ。ある人に取っては彼らは、既に案内者ではあり得ない。ポーターにしか過ぎない。登山者はまた、実に様々な要求を彼らに希望する。鉄道省旅客課あたりから登山者の感想、註文を求めると、千差万別な投書が舞い込むのである。
 △案内人の人格教養を高めよ!
 △客の作成せるスケヂュールを変更するな
 △料金を下げよ
 △山人独特の純朴な気持を失うな
 ――彼らの気風の変ってゆくのは登
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