山者の力より外ない――
 そして、ザイルの操作を研究し、ロッククライミングの技術を体得せしめよ。スキーに熟達を要す。雪崩《なだれ》に就いて科学的研究をなし冬季登山者の貴重なる生命を保証せよ。
 やがて、
 ――案内人はほどよき機智《ウイット》と、美貌の持主でありたい――てな事になるのではないだろうか、とまあ考えても見るのである。
 和製クララ・ボーが銀座の歩道を闊歩《かっぽ》する時代だ。夜の十時、新宿の駅に行って見るがいい。其処《そこ》には幾多《あまた》のモダン・ウィンパーが、そのルックサックに、都会の文化を一ぱいに詰め込み、肩に掛けたザイルに軽い憂鬱を漂わせ、雑踏に処して他人の邪魔にならない程度の気の利いたピッケルの持ち方をして、さて、重い登山靴をしかも大股に、朗らかな足どりでコンクリートを鳴らしている姿を見るであろう。
 都会人の山への情熱は既にこの時に燃えてる訳なのである。遥かに信飛の山上に瞬く星の光を幻想しつつ、ネオンの光に一瞥《いちべつ》の哀愁を投げかける。貴下は今、数日の間残して行かねばならぬ貴下の愛人の事を懐《おも》ってるのだ。
 見送ってくれるような愛人を持たない人は、せめて告知板に、
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○嬢よ! 十時まで待ったが君の姿が見えぬ。さらば! 僕は断然日本アルプスへ行く。
おお、山は何物よりも強く僕を魅惑する
               K
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とでも書いたらいい。
 もしも、貴下の愛人が、
「妾《わたし》も山へ登りたいわ、女性にだって登高本能はあることよ、だって妾、煙突なんかへ登りたくはないの、ねえ伴《つ》れてってくんない?」
とでも言ったなら、勇躍して引受けてよろしい。そして山上の突風の場合、または、急斜面の雪渓登行の際などを考慮して、服装に付いては、ややもするとパラシュートのようになり勝ちなスカートはいけない事、乗馬型のズボンが断然優秀な事などを注意しさえすれば、チョコレートと、コンパクトとは忘れるような事は決してないでしょう。
 さて、その翌朝、山麓の×駅に、相携えた二人の登山者は、かねて顔馳染《かおなじみ》である案内者に迎えられた。彼は彼氏をあたかも旧主の如く莞爾《にこ》やかに迎えて、その同伴者たる彼女にも野人らしい愛想を以て敬意を表した。
 いよいよ登高の第一日が始まる。草いきれのする裾野路。淙々《そうそう》たる渓流の響。闊葉樹林。駒鳥の声。雪渓。偃松《はいまつ》。高山植物を点綴した草野。そして辿《たど》り着いた尾根上の展望。三人はここにルックを投げだして暫《しばら》く楽しい憩いを続けるであろう。
 目近かく仰ぎ上げる頂上を掠《かす》めて、白い雲が飛んでは碧空に吸われるように消える。岩燕が鏑矢のような音たてて翔《と》び交《か》う。
 彼氏は徐《おもむ》ろにポケットから取り出したダンヒルのパイプに、クレーブンミクスチュアをつめる。彼女は、汗ばんだ鼻をコンパクトの鏡に写し了《お》えてから、チョコレートの銀紙をむきはじめる。彼女の投げ出した靴の先の所には岩桔梗《いわぎきょう》が可憐に震えていた。案内者は大きなめんつ[#「めんつ」に傍点]を拡《ひろ》げて、柘楠《しゃくなげ》の枝で作った太い箸《はし》で今朝から第何回目かの食事を初めた。
 真夏の太陽に照らされながらも、山上の空気は和《なご》やかに、彼氏と、彼女と、彼の三人を包んだ。野性と、モダニズムと。食慾と、恋愛と。一切は融け合ってしまった。宥《ゆるやか》に朗らかな風景である。
 彼女は、彼の偉大な食慾を讃嘆しつつ眺めていた。
「あんた! これ食べない?」
 彼は慌《あわ》てて、今|噛《かじ》りかけていたベビーゴルフのボールほど大きい梅漬を、めんつ[#「めんつ」に傍点]の中へ投げ込んで、股引《ももひき》でちょっとこすった手を彼の女の前へ差し出した。彼女はその、汚くよごれて、指節の高く太い彼の掌を、心中で「なんてグロテスクな手だろう」と思いながらその上へ、ポトリと、一個のチョコレートを落し与えたのである。
 彼氏は、北方を指して、あの遠く一塊の白い雲の下にあたる真白いのが立山《たてやま》である事、遥かな西方に淡く浮びあがったのが加賀の白山《はくさん》である事や、長い尾根続きの端に飛び騰《あが》ったような嶺が笠ヶ岳である事や、重畳《ちょうじょう》した波濤のような山々に就いて説明をした。
「ジャンダルムっての、あら素的《すてき》な岩壁ね、アンザイレンしましょうよ! そしてトラヴァースしてみない?」
 彼女はジャンダルクのように宣言した。
「此処《ここ》はお前様《めえさま》たちにゃ危ねえだ」
 彼は言った。が、彼氏は、彼女の希望に対して果断な決心を持ってザイルを解き初めた。
 彼氏の胴から彼女の胴へ、そして彼という順序に鮮
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