」「信濃、奥穂高岳、並木氏」「信濃、前穂高岳、徹蔵氏」一等三角点の下に攀《よ》じ、一息して晴雨計を見ると約三千米突。最高峰の南に位するゆえ、南穂高岳と命名した。
 先刻より気づこうていた霧は、果然包囲攻撃してくる、まるで手のつけようはない、打っても突《つ》ついても、音もなければ手応《てごた》えもない、折角《せっかく》自然の大観に接しようとしたがこの始末、そこで櫓《やぐら》に登り中食をしながら附近を見る、櫓柱は朽ちて央《なか》ば以上形なし、東下の石小屋は、屋根が壊れていて天套《テント》でもなければ宿れそうもない、たまたま霧の間から横尾谷の大雪渓と、岳川谷《たけがわだに》の千仞《せんじん》の底より南方に尾を走らしているのが、瞬間的に光るのを見た。
 やがて、米人フィシャー氏、嘉与吉を案内として、南口から直接登って来た、氏は昨夜温泉で、我《わが》行を聞き、同一|逕路《けいろ》を取らんため来たのである。いつまで待っても、霽《は》れそうもなければ、正午一行と別れ、予とフ氏とは、嘉門次父子を先鋒《せんぽう》とし、陸地測量部員の他、前人未知の奥穂高を指す。北の方|嶮崖《けんがい》を下る八、九丁で、南
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