穂高岳槍ヶ岳縦走記
鵜殿正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)方《あた》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)都合上|島々《しましま》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1−84−68]
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一 神秘の霊峰
信飛の国界に方《あた》りて、御嶽《おんたけ》・乗鞍・穂高・槍の四喬岳のある事は、何人《なんぴと》も首肯《しゅこう》する処《ところ》、だが槍・穂高間には、なお一万尺以上の高峰が沢山群立している、という事を知っている者は稀《まれ》である。で折もあらばこの神秘の霊域を探検して世に紹介しようと思うていた。幸い四十二年八月十二日正午、上高地《かみぐち》の仙境に入門するの栄を得た。
当時、この連峰の消息を知っている案内者は、嘉門次《かもんじ》父子の他にはあるまいと思って、温泉の主人に尋ねると皆おらぬ、丁度そこに類蔵がいたので話して見たが、通れぬという。三時頃嘉門次の伜《せがれ》嘉与吉が来たからこの案内を頼む、彼は都合上|島々《しましま》に行って来ると言って、十五日を登山日と定める、二日間滞在中穂高行の同志が四名増して一行五名。
十四日嘉与吉が来た、彼は脚気《かっけ》で足が痛むというので、途中宮川の小屋に立ち寄り、親父《おやじ》に代ってもらう事に話して来たゆえ、明朝父の居を尋ねて行かるれば、小屋からすぐ間道《かんどう》を案内するという。よろしい、実際痛いものなら仕方がない、嘉門次ならなお詳《くわし》かろうとそう決めた。
二 穂高岳東口道
十五日前三時、起て見ると晴、先《ま》ずこの様子なら降《ふ》りではなかろう、主人の注意と下婢《かひ》の働きで、それぞれの準備を終り、穂高よりすぐ下山する者のためにとて、特に案内者一名を傭《やと》い、午前の四時、まだ昧《くら》いうち、提灯《ちょうちん》を便《たよ》りての出発。梓《あずさ》川の右岸に沿い、数丁登って河童橋《かっぱばし》を渡り、坦道《たんどう》を一里ばかり行くと、徳合《とくごう》の小屋、左に折れ川を越えて、少々下れば、穂高仙人、嘉門次の住居、方《ほう》二|間《けん》余、屋根・四壁等皆板張り、この辺の山小屋としてはかなりの作《つく》り、檐端に近き小畠の大根は、立派に出来ている、東は宮川池に注ぐ一条の清流。嘉門次は炉辺で火を焚《た》きながら縄を綯《な》うている、どうも登山の支度をしてはいないらしい、何だか訝《いぶか》しく思うて聞いて見ると、穂高の案内なら昨夜の中《うち》に伝えて下さればよかった、と快く承知し、支度もそこそこ、飯をかっこみ、四十分ばかりで出発した。時に前五時四十分。
嘉門次は、今年六十三歳だ、が三貫目余の荷物を負うて先登する様《さま》は、壮者と少しも変りはない。梓川の右手、ウバニレ、カワヤナギ、落葉松《からまつ》、モミ、ツガ等の下を潜り、五、六丁行き、左に曲がると水なき小谷、斑岩の大塊を踏み、フキ、ヨモギ、イタドリ、クマザサの茂れる中を押し分けて登る。いかにも、人間の通った道らしくない。大雨の折りに流下する水道か、熊や羚羊《かもしか》どもの通う道だろう。喬木では、ツガ、モミ、シラベ、カツラ、サワグルミ、ニレ等混生している。登るに従い、小谷が幾条にも分れる。気をつけていぬと、わからぬほど浅い、が最初の鞍部《あんぶ》に出るまでは、右へ右へと取って行けば、道を誤る事はあるまい。この鞍部の前面は、小柴が密生している、山麓では緑色の毛氈《もうせん》を敷いたように見えるから、よく方位を見定めておくとよい。海抜約二千|米突《メートル》以上は、雑木次第に減じ、ミヤマカンバ、ミヤマハンノキ、ミヤマナナカマド等の粗く生えたる土地、ここをぬけると上宮川原《かみみやがわら》「信濃、上宮川原、嘉門次」、左の方数丁には、南穂高の南東隅に当る赭《しゃ》色の絶嶂《ぜっしょう》。一休して、この川原を斜めに右方に進み、ベニハナイチゴ、ミヤマナナカマド、ミヤマカンバの小柴を踏み、午前八時には前記の鞍部、高さ約二千二百六十米突、ここに、長さ十間幅四間深さ三尺ばかりの小池がある、中ほどがくびれて瓢形《ひょうけい》をなしているから、瓢箪池《ひょうたんいけ》といおう。池の周《まわ》りのツガザクラ、偃松《はいまつ》は、濃き緑を水面に浮べている。これより左折|暫時《ざんじ》小柴と悪戦して、山側を東北に回り十丁ばかりで、斑岩の大岩小岩が筮木《ぜいぼく》を乱したように崩れかかっている急渓谷、これが又四郎谷「信濃、又四郎谷、嘉門次」、やや下方に、ざあ、ざっと水の流るる音、これから上は、残雪の他、水を得られないとて
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