水筒に充《みた》し、一直線にこの急坂を登る。
 一岩を踏むと、二つも三つも動く、中には戛々《かつかつ》と音して、後続者の足もとを掠《かす》め、渓谷に躍って行くので、皆横列になって危険を避ける。約二千六百四十米突の辺から、三丁余の残雪、雪上では道がはかどらねば、左《ゆ》ん手《で》の嶂壁の下に沿うて登る、この雪が終ると、峡谷が四岐する、向って左から二番目がよい、午前十時五十分、約二千八百四十米突の山脊つく。
 すぐ目についたは温泉場、その南に隣《とな》って琉璃色《るりいろ》のように光る田代池《たしろいけ》、焼岳《やけだけ》も霞岳もよく見える、もうここに来ると偃松は小くなって、処々にその力なき枝椏《しあ》を横たえ、黄花駒の爪は独《ひとり》笑顔を擡《もた》げている、東南方数町に峰「信濃、前穂高岳、並木氏」二つ、高さは二千八百米突内外、その向うが今朝登って来た上宮川原。間もなく南麓から、霧がぽかぽかやって来た。急遽右に折れ、三角点目的に登る。このあたり傾斜やや緩《ゆる》く、岩石の動揺が少ないので、比較的容易だ。

    三 南穂高岳

 午前十一時十五分、遂に、南穂高岳「信濃、又四郎岳、嘉門次」「信濃、奥穂高岳、並木氏」「信濃、前穂高岳、徹蔵氏」一等三角点の下に攀《よ》じ、一息して晴雨計を見ると約三千米突。最高峰の南に位するゆえ、南穂高岳と命名した。
 先刻より気づこうていた霧は、果然包囲攻撃してくる、まるで手のつけようはない、打っても突《つ》ついても、音もなければ手応《てごた》えもない、折角《せっかく》自然の大観に接しようとしたがこの始末、そこで櫓《やぐら》に登り中食をしながら附近を見る、櫓柱は朽ちて央《なか》ば以上形なし、東下の石小屋は、屋根が壊れていて天套《テント》でもなければ宿れそうもない、たまたま霧の間から横尾谷の大雪渓と、岳川谷《たけがわだに》の千仞《せんじん》の底より南方に尾を走らしているのが、瞬間的に光るのを見た。
 やがて、米人フィシャー氏、嘉与吉を案内として、南口から直接登って来た、氏は昨夜温泉で、我《わが》行を聞き、同一|逕路《けいろ》を取らんため来たのである。いつまで待っても、霽《は》れそうもなければ、正午一行と別れ、予とフ氏とは、嘉門次父子を先鋒《せんぽう》とし、陸地測量部員の他、前人未知の奥穂高を指す。北の方|嶮崖《けんがい》を下る八、九丁で、南穂高と最高峰とを連ねている最低部、横尾谷より来ると、この辺が登れそうに見えるが甚《はなは》だ危険だ、奥穂高と北穂高との間を通るがよい。霧は次第に深く、かてて雨、止むを得ず合羽《かっぱ》を纏《まと》い、岩陰で暫時雨を避け、小降りの折を見て、また登り始める。

    四 雲の奥岳

 道はますます嶮《けわ》しくなる、鋸歯《きょし》状の小峰を越ゆること五つ六つ、午後二時二十分、最高峰奥穂高「信飛界、奥穂高岳、徹蔵氏」「信飛界、岳川岳、フィシャー氏」の絶巓《ぜってん》に攀じ登った。南穂高からは半里で、およそ二時間かかる、頂の広さ十数歩、総て稜々《ぎざぎざ》した石塊、常念峰のような円形のものは一つもない、東隅には方二寸五分高さ二尺の測量杭がたった一本。東南は信濃|南安曇《みなみあずみ》郡安曇村、一歩転ずれば飛州|吉城《よしき》郡|上宝《かみたから》村、海抜約三千百十米突、従来最高峰と認められていた、南穂高を凌《しの》ぐ事実に一百余米突、群峰の中央に聖座しているから、榎谷氏のいわれた奥穂高が至当だろう。またも雲の御幕で折角の展望もめちぁめちぁ[#「めちぁめちぁ」に傍点]、ただ僅かの幕の隙《す》き間《ま》を歩いた模様で、概略の山勢を察し得られたのは、不幸中の幸。
 遥か南々西に位する雄峰乗鞍岳に禦《あた》るのには、肩胛《けんこう》いと広き西穂高岳が、うんと突っ張っている、南方霞岳に対しては、南穂高の鋭峰、東北、常念岳や蝶ヶ岳を邀《むか》うには、屏風岩の連峰、北方の勁敵《けいてき》、槍ヶ岳や大天井《おおてんしょう》との相撲《すもう》には、北穂高東穂高の二峰がそれぞれ派せられている、何《いず》れも三千米突内外の同胞、自ら中堅となって四股《しこ》を踏み、群雄を睥睨《へいげい》しおる様《さま》は、丁度、横綱の土俵入を見るようだ。さはいえ、乗鞍や槍の二喬岳を除けば、皆前衛後衛となって、恭《うやうや》しく臣礼を取っているにすぎぬ。槍ヶ岳対穂高岳は、常陸山《ひたちやま》対梅ヶ谷というも、強《あなが》ち無理はなかろう、前者の傲然|屹《つ》っ立《た》てる、後者の裕容迫らざるところ、よく似ている。あわれ、日本アルプスの重鎮、多士済々の穂高には、さすがの槍も三舎を避けねばなるまい、彼は穂高に対し、僅かにこれと抗すべき一、二峰派しているも、大天井や鷲羽《わしば》に向う子分は、貧乏神以下、先ず概勢はこん
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