なもの。
 この絶大観に接した刹那《せつな》、自分は覚えず恍惚《こうこつ》として夢裡《むり》の人となった。元来神は、吾人の見る事の出来ぬ渺漠《びょうばく》たるもの、果《は》ては、広大無限、不可思議の宇宙を造り、その間には、日月星辰山川草木と幾多の潤色がしてある。今我が立てる処もまたその撰にもれぬ。人為では、とてもそんな真似は覚束《おぼつか》ない、平生《へいぜい》名利の巷《ちまた》に咆哮《ほうこう》している時は、かかる念慮は起らない、が一朝|塵界《じんかい》を脱して一万尺以上もある天上に来ると、吾人の精神状態は従って変ると見える。これ畢竟《ひっきょう》神の片影なる穂高ちょう、理想的巨人の御陰《おかげ》だろうとしみじみ感ぜられた。
 標高千米突内外の筑波《つくば》や箱根では、麓で天候を予想して登っても、大なる失策はなかろう、が三千米突以上の高山となると、山麓で晴天の予想も、頂上へ行くとがらりかわり、折々雲霧に見舞われる、これによると、今回のように度々御幕がかかるのが、かえって嵩高《すうこう》に感ぜられる。万山の奥ともいわるる槍でさえ、夙《はや》くから開け、絶頂始め坊主小屋等は、碑祠を建立せられたるため、幾部分汚されてるが、世に知られないのは穂高の幸か、空海も、播隆(槍ヶ岳の開山和尚)も、都合よく御開帳に出っくわせなかったろう、とこしなえにこのままの姿で置きたいものだ、とかくに浮世の仮飾《かしょく》を蒙《こうむ》ってない無垢《むく》の爾《なんじ》を、自分は絶愛する。
 岳名の穂は、秀の仮字にて秀でて高き意なるべしと、また穂高を奥岳ともいう、と『科野《しなの》名所集』に見ゆ、俊秀独歩の秀高岳、まことにこの山にして初めてこの名あり。

    五 北穂高岳

 午後二時三十分、最愛の絶頂に暇を告げ、北に向いて小一丁も進むと、山勢が甚しく低下して行くので、驚いて岳頂を見ると、はや雲深く※[#「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1−84−68]《とざ》され、西穂高が間々《まま》影を現わすより、蒲田《がまた》谷へ下りかけた事と知れ、折り返して頂上に出《い》で、東北へと尾根伝いに下る。
 此処《ここ》から槍までは、主系の連峰を辿《たど》るのだ、即ち信・飛の国界、処々に石を積み重ねた測点、林木の目を遮《さえ》ぎるものはなく、見渡す限り、※[#「石+雷」、265−12]※[#「石+可」、265−12]《らいら》たる岩石、晴天には槍がよく見えるから、方向を誤る気支《きづか》いはない。山稜は概して右側にかぶり、信州方面には絶峭が多い、二、三の場所を除けば、常に左側十数歩の処に沿うて行けばよい。
 八丁ばかり行くと鞍部、右手には、残雪に近く石垣を周《めぐ》らせる屋根なしの廃屋、此処は、燃料に遠く風も強くて露営には適せぬ。北に登る四丁で三角点の立てる一峰、標高三千七十米突、主峰の北々東だ、が北穂高岳「信飛界、空沢岳《からさわだけ》(宛字《あてじ》)、嘉門次」と命名しておく。
 櫓の下より東に向いて、数十丈の嶮崖を下らねばならぬ、ここが第一の難関、相悪《あいに》く大降り、おまけに、横尾谷から驀然《ばくぜん》吹き上ぐる濃霧で、足懸《あしがか》りさえ見定めかね、暫時茫然として、雨霧の鎮《しず》まるを俟《ま》てども、止みそうもない、時に四時三十分。今朝出がけには、槍の坊主小屋あたりに泊《と》まる考だのに、まだその半途、今日はとても行けぬ、しかしこんな峰頂では、露営は覚束《おぼつか》ない、ぐずぐずしていると日が暮れる、立往生するのも馬鹿げている、かように濡《ぬ》れては、火が第一番だから林を目的に下れ、途中に岩穴でもあらば、そこに這入《はい》ろうと、後方鞍部に引き返し、山腹を斜に東に下る。

    六 空沢の石窟

 道すがら、大きな石を探る二つ三つ、十二、三丁も下ったと思うころ、方三間高さ一間余の大石の下、少々空虚あるを見出す。幸《さいわい》、近くには偃松《はいまつ》、半丁余で水も得られる。かかる好都合の処はないとて、嘉与吉と二人で、その下の小石を取り除けて左右に積み、風防《かぜよ》けとし、居を平に均《なら》す、フ氏と嘉門次は、偃松の枝を採りて火を点《つ》ける、これでどうやら宿れそうだ。やがて、雲霧も次第に薄らぐ、先ず安心、と濡た衣裳を乾かす。
 この大谷を、横尾の空沢または大沢「信濃、横尾の空沢、嘉門次」という。空沢とは、水なき故なりと。上方は、兀々《こつこつ》とした大磧、その間を縦に細長く彩色しているのは草原、下方は、偃松、ミヤマハンノキ、タケカンバ等が斑状に茂っている。南穂高から東北に岐《わか》れ、逓下《ていげ》して梓川に終る連峰は、この谷と又四郎谷との境で、屏風《びょうぶ》岩または千人岩(宛字)「信濃、屏風岩、嘉門次」と呼ばれ、何れもよく山容を言い顕《あらわ
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