てはかなりの作《つく》り、檐端に近き小畠の大根は、立派に出来ている、東は宮川池に注ぐ一条の清流。嘉門次は炉辺で火を焚《た》きながら縄を綯《な》うている、どうも登山の支度をしてはいないらしい、何だか訝《いぶか》しく思うて聞いて見ると、穂高の案内なら昨夜の中《うち》に伝えて下さればよかった、と快く承知し、支度もそこそこ、飯をかっこみ、四十分ばかりで出発した。時に前五時四十分。
 嘉門次は、今年六十三歳だ、が三貫目余の荷物を負うて先登する様《さま》は、壮者と少しも変りはない。梓川の右手、ウバニレ、カワヤナギ、落葉松《からまつ》、モミ、ツガ等の下を潜り、五、六丁行き、左に曲がると水なき小谷、斑岩の大塊を踏み、フキ、ヨモギ、イタドリ、クマザサの茂れる中を押し分けて登る。いかにも、人間の通った道らしくない。大雨の折りに流下する水道か、熊や羚羊《かもしか》どもの通う道だろう。喬木では、ツガ、モミ、シラベ、カツラ、サワグルミ、ニレ等混生している。登るに従い、小谷が幾条にも分れる。気をつけていぬと、わからぬほど浅い、が最初の鞍部《あんぶ》に出るまでは、右へ右へと取って行けば、道を誤る事はあるまい。この鞍部の前面は、小柴が密生している、山麓では緑色の毛氈《もうせん》を敷いたように見えるから、よく方位を見定めておくとよい。海抜約二千|米突《メートル》以上は、雑木次第に減じ、ミヤマカンバ、ミヤマハンノキ、ミヤマナナカマド等の粗く生えたる土地、ここをぬけると上宮川原《かみみやがわら》「信濃、上宮川原、嘉門次」、左の方数丁には、南穂高の南東隅に当る赭《しゃ》色の絶嶂《ぜっしょう》。一休して、この川原を斜めに右方に進み、ベニハナイチゴ、ミヤマナナカマド、ミヤマカンバの小柴を踏み、午前八時には前記の鞍部、高さ約二千二百六十米突、ここに、長さ十間幅四間深さ三尺ばかりの小池がある、中ほどがくびれて瓢形《ひょうけい》をなしているから、瓢箪池《ひょうたんいけ》といおう。池の周《まわ》りのツガザクラ、偃松《はいまつ》は、濃き緑を水面に浮べている。これより左折|暫時《ざんじ》小柴と悪戦して、山側を東北に回り十丁ばかりで、斑岩の大岩小岩が筮木《ぜいぼく》を乱したように崩れかかっている急渓谷、これが又四郎谷「信濃、又四郎谷、嘉門次」、やや下方に、ざあ、ざっと水の流るる音、これから上は、残雪の他、水を得られないとて
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