65−12]《らいら》たる岩石、晴天には槍がよく見えるから、方向を誤る気支《きづか》いはない。山稜は概して右側にかぶり、信州方面には絶峭が多い、二、三の場所を除けば、常に左側十数歩の処に沿うて行けばよい。
 八丁ばかり行くと鞍部、右手には、残雪に近く石垣を周《めぐ》らせる屋根なしの廃屋、此処は、燃料に遠く風も強くて露営には適せぬ。北に登る四丁で三角点の立てる一峰、標高三千七十米突、主峰の北々東だ、が北穂高岳「信飛界、空沢岳《からさわだけ》(宛字《あてじ》)、嘉門次」と命名しておく。
 櫓の下より東に向いて、数十丈の嶮崖を下らねばならぬ、ここが第一の難関、相悪《あいに》く大降り、おまけに、横尾谷から驀然《ばくぜん》吹き上ぐる濃霧で、足懸《あしがか》りさえ見定めかね、暫時茫然として、雨霧の鎮《しず》まるを俟《ま》てども、止みそうもない、時に四時三十分。今朝出がけには、槍の坊主小屋あたりに泊《と》まる考だのに、まだその半途、今日はとても行けぬ、しかしこんな峰頂では、露営は覚束《おぼつか》ない、ぐずぐずしていると日が暮れる、立往生するのも馬鹿げている、かように濡《ぬ》れては、火が第一番だから林を目的に下れ、途中に岩穴でもあらば、そこに這入《はい》ろうと、後方鞍部に引き返し、山腹を斜に東に下る。

    六 空沢の石窟

 道すがら、大きな石を探る二つ三つ、十二、三丁も下ったと思うころ、方三間高さ一間余の大石の下、少々空虚あるを見出す。幸《さいわい》、近くには偃松《はいまつ》、半丁余で水も得られる。かかる好都合の処はないとて、嘉与吉と二人で、その下の小石を取り除けて左右に積み、風防《かぜよ》けとし、居を平に均《なら》す、フ氏と嘉門次は、偃松の枝を採りて火を点《つ》ける、これでどうやら宿れそうだ。やがて、雲霧も次第に薄らぐ、先ず安心、と濡た衣裳を乾かす。
 この大谷を、横尾の空沢または大沢「信濃、横尾の空沢、嘉門次」という。空沢とは、水なき故なりと。上方は、兀々《こつこつ》とした大磧、その間を縦に細長く彩色しているのは草原、下方は、偃松、ミヤマハンノキ、タケカンバ等が斑状に茂っている。南穂高から東北に岐《わか》れ、逓下《ていげ》して梓川に終る連峰は、この谷と又四郎谷との境で、屏風《びょうぶ》岩または千人岩(宛字)「信濃、屏風岩、嘉門次」と呼ばれ、何れもよく山容を言い顕《あらわ
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
鵜殿 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング