粟を入れる。村では少しの麦を加えるそうだが、山上では粟ばかりだという。どんな味かと聞たら、温いうちはよいが、冷えたらとても東京の人には食べられまいという。
今朝は汁もない、辛い味噌漬二切で食事をすます。
暫く焚火を囲みながら、天気の模様を見る。
霧は晴れそうにもない。沢のほとり、林のあたりで、何やら冴えた声で鳥が啼《な》く。うっとりとよい心持になる。歌舞伎座も八百膳も用はない。このまま一生ここにいても悪くはないと思う。が、そうもならない、この霧は昼過ぎにでもならねば晴れまいという。残念だが六万平を思い捨てて湯の宿へ帰ることにした。
霧の中を下へ下へと急ぐ、急に明るくなって、遠くの山が一角を現わすかと見ると、忽ち暗くなって、すぐ前の林をかくす、歩一歩、早川渓の水声が高くなって、吾らはいつか宗平の家の前に立った。
俄に雨が降り出したので、洋傘を借りて、霧繁き草道を、温泉へ帰ったのは十時頃であった。
昨夜帰らないので、宿では迎いを出そうとしたそうだ、しかし宗忠もついているから、たぶん湯島へ泊ったことと、終に見合せたといっていた。
生温くとも湯に入った心持はわるくはない。
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