物入りもなく、貧しいながらも困っているものは一人もないという。この兄弟も、銘々懐中時計を持っている。宗忠の家にも大きなボンボン時計があった。
このように、碌なものは食わないが、それでも皆丈夫で、医者は一人もいないが病人もない。奈良田でも湯島でも、徴兵検査に不合格は殆どないと誇っている。
牛を知らぬ、馬を知らぬ、人力車、馬車、自動車、汽車、電車、そんなものは見たことがない、車というのは水車のことで、小舟さえないから、汽船も軍艦も画で想像するばかり、もちろん白峰の頂上へでもゆかなければ海も見えない。東京を西に距《へだた》ること僅かに三十里、今もなお昔のままの里はあるのだ。
十五
話に実が入って夜は十一時になった。便所はときくと、この小屋の渓《たに》に向った方に板がある。その上からという。「蝋《ろう》マッチ」をてらして辛うじて板の上へ出たが、絶壁にも比すべきところに、突き出された二本の丸太、その上に無造作に置かれた一枚の薄板、尾瀬沼のそれにも増した奇抜な便所に、私は二の足を踏まざるを得なかった。空はと見上げれば星一つない。雲の往来も分らぬ、真の闇でそよとの風も吹かぬ夜を
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