物として私の最も好む山百合、豌豆《えんどう》の花、白樺、石楠花《しゃくなげ》のほかに、私は落葉松という一つの喬木《きょうぼく》を、この時より加えることにした。
 一時間ほど筆を走らせて更に上流へと歩を進めた。五、六丁にして道は左の沢に入る。ここで早川の本流と別れて、この沢に沿うてなお深く入り込む、岸が尽きて危うき梯子《はしご》を懸《か》けたところもある。渓の上にただ一本の木を橋に渡したところもある。かかる山懐《やまふとこ》ろにも焼畑はあって、憐れげな豆や粟《あわ》が作られている。そのまた奥には下駄を造る小屋もある。山人の生活は労多きものである。
 往けども往けども白河内の山は見えない。あの高きところへ上ればと、汗ぬぐいつつ辿《たど》りつけば、更に木立深き前山が、押冠さるように近々と横たわっている。道も漸く覚束《おぼつか》なく、終には草ばかりになってしまう、帰りの時間も気遣《きづか》われる、足も痛み出した、山の見えぬのは残念だが終に引返すことにした。二十丁も戻って初めの沢近く来た時、ふと前面を見ると、例の落葉松の深林が背後から午後の日をうけてパッと輝いている。根元の方にも日の光は漏れて、
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