立っているところからはよく見えぬ。私は岸を東へ東へと走った、やがて道は尽きた、崖と水とは相接して足がかりは僅かに数寸、私は辛うじてそこをも通った。岩を伝わった。樹根に縋《すが》った。こうして往けるだけ往った。そしてささやかなる平地に三脚を据えて、山中の湖に浮べる如きなつかしき白峰の一部を写したことがあった。
 翌年の三月某日、これも雨後の朝、鎌倉にゆく途中、六郷鉄橋の辺から、再び玲瓏たる姿に接した。描きたい、描きたいという念は、いっそう深くなった。
 白峰を写すには何処がよかろう、十重二十重《とえはたえ》山は深い。富士のように何処《どこ》からも見えるというわけにはゆかぬ。地図を調べ人にもきいた。近く見るには西山峠、遠く見るには笹子峠、この二つが一番よいようである。私は五月某日、終《つい》に笹子に向った。
 初鹿野《はじかの》で汽車を下りて、駅前の哀《あわ》れな宿屋に二晩泊ったが、折あしく雨が続くのでそこを去った。そしてその夕、甲府を経て右左口《うばぐち》にゆく途中で、乱雲の間から北岳の一角を見て胸の透くのを覚えた。
 翌日は右左口峠を登りつつ、雲の間から連峰の一部をちらちら見た。峠の上
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