が聳《そび》えている。後の方は今来た道を、遠く富士が頂きを見せている。源氏山の中腹を過ぎると、早川に沿うた連嶺が眼前に展開され、杳《はる》かに水の音がきこえる。細い白樺もチラホラ見える。草山の出鼻を曲ると、やや曇った西の空に、蝙蝠傘《こうもりがさ》を展《ひろ》げたような雪の山が現われた。
 待ち焦《こが》れた雪の山、私の足は地から生えたように動かなくなった。前には華やかな色の樺の若木が五、六本、後には暖い鼠色をした早川連嶺が、二重三重と輪廓を画く、その上から顔を出している雪の峰、白峰! 白峰!
 人夫はその名を知らなかった。地図も見たがあまりに南へ寄っているので北岳ではない。農鳥《のうとり》でもない、大井川を超《こ》えて赤石《あかいし》が見えるのかとも思った。後に聞いたら赤石山系の悪沢《わるさわ》岳であった。
 私どものゆく道は新道で、旧道七曲峠の方からは白峰もかなりよく見えるという。それを楽しみに歩を運んだ。急坂を下ると河原に出る。橋を渡ってまた水を遥かの下に見て、曲り曲りて北を指してゆく。
 渓の水音が遥かにきこえる。対岸に幾棟かの藁《わら》屋根が見える。そこは上湯島だという。長い釣橋が一直線に見える。椏《みつまた》や山桐や桑や、人の植えた木が道に沿うてチラホラ見える。焼畑には哀れな粟や豆が作られてある、村人が三三五五それらの穀物を刈っている。豆がらを焼く煙が紫に立ち昇って、鼠色の空にうすれてゆく。
「もう一里ほどです」と人夫はいう。道は細く、山から辷《すべ》り落ちた角のある石の片けが、土を見せない。急な下り道では、足は石車に乗って、心ならずも数間を走らねばならぬ。人夫の背負うていた私の写生箱は、いつか細引の縛《いまし》めを逃れて、カラカラと左の渓《たに》へ落ちた。ハッと思って下を覗《のぞ》くと、幸いに十数間の下で樹の根に遮《さえぎら》れて止まっている。崖は傾斜が急で下りられない。大迂回をして漸く拾い上げたが、一時は吾《わが》事《こと》終れりと悲観したのであった。
 川に近く下って、右に曲ると、上り坂だ。湯川の水の音は耳を聾するようである。見上げると三階建の大きな家がある、右の崖の上にも新しい家が見える。前なるは古湯で後なるは新湯、私は新湯の玄関に荷物を下させた。

      五

 紺の裾短かな着物を着た若い女中が出て来た。黒光りの長い縁側を通って、初めに見た新しい二階の一室に入る、天井の低い、壁のない、畳の凸凹な、極めて粗末な部屋だが、新しいので我慢も出来よう。主人はやって来て「小島サンもこの室に御泊でした、この夏山岳会の大勢の御方の時は、ここと隣りの部屋とにおられました」と語る。親しい友の、幾夜さかを過した座敷かと思うと何となく懐かしい。
 着いた時に、パッと明るく障子に射していた午後二時の日の光は、三十分もたたぬうちに前の山に隠れてしまった。いまはまだ一日に一時間位い、この谷に日は照らすが、冬になると全く日の目を見ないそうだ。さぞ寒かろうと思う。
 浴衣を貸してくれる、珍しくも裾は踵《かかと》まである、人並より背の高い私は、貸浴衣の丈《たけ》は膝までにきまったものと、今まで思っていたのだ。
 浴槽は入口の近くにあって、五、六坪もあろう、中を二つに仕切ってあって、湯は中央のあたりに、竹樋から滔々《とうとう》と落ちている。玉を溶かしたように美しいが、少し微温《ぬる》いので、いつまでも漬《つか》っていなくてはならない。流し場もなければ桶一つない、あたりに水もない殺風景なものだ。湯は温微でも風邪にはかからぬと宿の人は保証する、風邪のときも湯に入ると治りますという、近在から来ている二、三の湯治客は、幾度も幾度も湯に入り、いつまでもいつまでも湯の中にいるのである。
 長火鉢、これはこの火鉢が出来て以来、中の灰は掃除したことがあるまい。きっとないと請合《うけあ》える位いの穢《きた》なさだが、火も炭も惜気もなく沢山持って来られるのは、肌寒き秋の旅には嬉しいものの一つである。宿から出してくれた凍りがけの茶受には手は出ない。持参の「ココア」を一杯飲んで、湯上りの身体を横たえた時はよい心持だった。
 縁に立って西の方を見ると、間近く山が逼《せま》って来て、下の方遥かに早川の水が僅かに見える。湯川に架れる釣橋も見える。紅葉はまだ少し早く、崖の下草のみ秋の色を誇っている。裏の窓を明けると、目の下に古湯の建物が見え、その背後に湯川が滝のように落下している。南の方からも水は来て、すぐ窓の下を轟々《ごうごう》と音たてて流れている。渓《たに》は狭い、信州上高地のように、湯に漬りながら雪の山を見るという贅沢《ぜいたく》は出来ない、明日は七曲峠の上で白峰を見たいものだと思う。
 ここから上湯島へ三十丁、下湯島へ一里、奈良田へは一里半もあるという、郵便
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