も毀《こわ》れそうな馬車だ。馬は車に馴《な》れず、動かじと佇《たたず》むかと思うと、また俄《にわ》かに走り出す。車の右は西山一帯の丘陵で、その高低|参差《しんし》たる間から、時々白い山が見える。南湖の手前で少しく川に沿うて堤の上をゆく。咲き残りの月見草が侘《わび》しげに風に動いている。柳は錆《さ》びた色をしてこれも風に靡《なび》いている。ちょっと景色のよいところだと思うた。
青柳という町を過ぎる。近きにお祭があるというので、軒提灯《のきぢょうちん》を吊して美《うるわ》しく飾っていた。
形|面白《おもしろ》き柳の巨木の、水に臨んで、幾株か並んでいる広い河原、そこに架《か》けたる手摺《てすり》なき長い橋を渡ると鰍沢《かじかざわ》の町だ。私は右側の粉奈屋という旅店に投じた。丁度三時半。
二階から富士が見える。やはり形が悪い。富士の美しいのは裾野が展《ひら》いているからだ。裾を隠して頂だけでは、尖端鋭き金峰山などの方が遥かに美しい。富士は頭を隠してもよい、裾野は隠れてはいけない。
宿の背後はすぐ山で、社やら寺やら、高地に建物が見え、樹が繁っている。紅葉の色もよい、山上の見晴しもよかろう。
番頭に明日西山行の人夫を頼む。女中のお竹さん、西山の景勝を説くこと極めて詳、ただし湯島近所から雪の山が見えるとはいわないので、少しく心許《こころもと》なく思う。
隣家の素人義太夫《しろうとぎだゆう》をききながら夢に入る。
三
翌朝五時半には、私どもは粉奈屋を発《た》った。空は薄く曇っているが、月があるので明るい。新しい草鞋《わらじ》に、少しく湿った土を踏んでゆく心持はよい。細い流れに沿うてゆく、鼠色の柳が水を覗《のぞ》いている、道は少しずつの上りで沢を渡り田の畔《あぜ》を通る、朝仕事にゆく馬を曳いた男にも逢う、稲を刈りにゆく赤い帯をした女にも逢う、空は漸く明るくなって時々日の目をもらす。
往手にあたって黒い大きな門が見える。刈ったばかりの稲束が、五つ六つ柱によせかけてある、人夫は「これが小室の妙法寺で、本堂は一、二年前に焼けました、立派なお堂だったが惜しいことをした」という。門へ入る、両側に人家がある、宿屋もある、犬が連《しき》りに吠える。
山門を潜ったが、奥にはゆかず、道を左に取って山田の畦をゆく。家の形も面白く、森や林の姿もよい、四、五日の材料はあろうと思った。
道は漸く急になる。右に左にうねりつつ登る。上には松に吹く風の音、下にはカサコソと落葉を踏む音、それのみで天地は極めて静である。空は次第に晴れて来て、ジリジリと背を照らす日は暑い。汗で身体は濡れる。外套《がいとう》を取って人夫に持たせる。上衣を脱《ぬ》いで自分で持つ。峠の曲り角では必ず休む。
かなり高く登った。振向《ふりむ》いて見ると、富士はいつの間にか姿を出している。甲府盆地で見た時とは違って雄大の感がある。麓の方一条の白い河原は、富士川で、淡く煙りの立つあたりは鰍沢だと人夫は指す。
道の傍に小さな池がある、七面の池という、枯蘆が茂った中に濁った水が少し見える。このあたりは落葉松《からまつ》の林で、葉は僅かに色づいて、ハラハラと地に落ちる。暗い緑の苔と、そして細かき落葉で地は見えない、その上を歩むと、軽く弾《はじ》かれるようでしっとりした感じが爪先から腹にまでも伝わって来るようだ。
池を離れてからは、短い雑木や芒の山で、日を遮《さえぎ》るものがなく、暑さは前にも増して烈《はげ》しい。人夫の間違で、草刈道を三、四丁迷い込んで跡へ戻った時は、少々|忌々《いまいま》しかった。ところどころ樅《もみ》の大木がある。富士はいよいよ高くいよいよ大きく見える。
鰍沢から歩むこと三時間半、道程三里にしてデッチョーの茶屋というに着いた。峠の頂上で、出頂とか絶頂とか書くのであろう。茶屋は少し山蔭の平地に在《あ》って、ただ一軒の穢《きた》ない小屋にすぎない、家の前には、近所の山から採って来た雑木《ぞうき》が盆栽的に並んでいる。真暗な家の中には、夫婦に小供二、三人住んでいる。この子たちはどうして学校へゆくのだろうと気になる。暗い中に曲物《まげもの》が沢山ある。粟《あわ》で飴《あめ》を造って土産に売るのだそうな。握飯を一つ片づけ、渋茶をすすって暫くここに休む。
四
茶屋から先は下り一方ではあるが、久しく歩行《ある》かぬためか、足の運びが鈍い、爪先が痛む、コムラが痛む、膝節がいたむ、腿《もも》がいたむ、終《つい》には腰までも痛む、今からこんなことではと気を鼓しつつ進む。
道は山の裾に沿うて、たえず左に暗い谷を見ながらゆく。掩《おお》い冠《かぶ》さるように枝を延している紅葉の色の美《うるわ》しさは、比ぶるにものがない。前には常盤木《ときわぎ》の繁れる源氏山
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