白峰の麓
大下藤次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)小島烏水《こじまうすい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)信州|徳本《とくごう》峠

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](明治四十二年十一月)
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      一

 小島烏水《こじまうすい》氏は甲斐《かい》の白峰《しらね》を世に紹介した率先者である。私は雑誌『山岳』によって烏水氏の白峰に関する記述を見、その山の空と相咬む波状の輪廓、朝日をうけては紅《くれない》に、夕日に映えてはオレンジに、かつ暮刻々その色を変えてゆく純潔なる高峰の雪を想うて、いつかはその峰に近づいて、その威厳ある形、その麗美なる色彩を、わが画幀に捉うべく、絶えず機会をうかがっていた。
 私が白峰連嶺を初めて見たのは、四十一年の秋、甲州山中湖に遊んだおりで、宿雨のようやく霽《は》れたあした、湖を巡りて東の岸に立った時、地平線上、低く西北に連なる雪の山を見た。白峰! と思ったが、まだ疑いはある。ポケットから地図を出す、磁石を出す、そして初めて白峰! と叫んだ。今自分の立っているところからはよく見えぬ。私は岸を東へ東へと走った、やがて道は尽きた、崖と水とは相接して足がかりは僅かに数寸、私は辛うじてそこをも通った。岩を伝わった。樹根に縋《すが》った。こうして往けるだけ往った。そしてささやかなる平地に三脚を据えて、山中の湖に浮べる如きなつかしき白峰の一部を写したことがあった。
 翌年の三月某日、これも雨後の朝、鎌倉にゆく途中、六郷鉄橋の辺から、再び玲瓏たる姿に接した。描きたい、描きたいという念は、いっそう深くなった。
 白峰を写すには何処がよかろう、十重二十重《とえはたえ》山は深い。富士のように何処《どこ》からも見えるというわけにはゆかぬ。地図を調べ人にもきいた。近く見るには西山峠、遠く見るには笹子峠、この二つが一番よいようである。私は五月某日、終《つい》に笹子に向った。
 初鹿野《はじかの》で汽車を下りて、駅前の哀《あわ》れな宿屋に二晩泊ったが、折あしく雨が続くのでそこを去った。そしてその夕、甲府を経て右左口《うばぐち》にゆく途中で、乱雲の間から北岳の一角を見て胸の透くのを覚えた。
 翌日は右左口峠を登りつつ、雲の間から連峰の一部をちらちら見た。峠の上では急いでスケッチもした。女阪峠を上る時も片鱗はいく度も見たが、全形を眺むることは出来なかった。
 精進《しょうじ》を過ぎ本栖《もとす》を発足《た》って駿甲の境なる割石峠の辺から白峰が見える。霞たつ暖い日で、山は空と溶け合うて、ややともすればその輪廓を見失うほど、杳《はる》かに、そして幽《かす》かなものであった。

      二

 甲州西山は、白峰の前岳で、早川の東、富士川の西に介在せる、五、六千尺の一帯の山脈である。この峠に立ったなら、白峰は指呼《しこ》の間に見えよう、信州|徳本《とくごう》峠から穂高山を見るように、目睫《もくしょう》の間にその鮮かな姿に接することが出来ないまでも、日野春《ひのはる》から駒ヶ岳に対するほどの眺めはあろう。早川渓谷の秋も美《うるわ》しかろう。湯島の温泉も愉快であろう。西山へ、西山へ、画板に紙を貼《は》る時も、新しく絵具を求むる時も、夜ごとの夢も、まだ見ぬ西山の景色や白峰の雪に想《おも》いを馳《は》せていた。
 東京を発足《た》ったのは十一月一日、少し霧のある朝で、西の空には月が懸っていた。中野あたりの麦畑が霞んで、松二、三本、それを透して富士がボーっと夢のよう、何というやさしい景色だろうと、飽《あ》かず眺めつつ過ぎた。小仏《こぼとけ》、与瀬、猿橋、大月と、このあたりの紅葉はまだ少し早いが、いつもはつまらぬところでも捨てがたい趣きを見せていた。
 長いトンネルを出ると初鹿野、ここから塩山《えんざん》までの間に白峰は見えるはずだ。席を左に移して窓際に身をピッタリ。
 果然、雪の白峰連嶺は、飽くまで蒼《あお》い空に、クッキリとその全身を露わしている。水の垂れそうな秋の空、凍ったような純白の雪、この崇高な山の威霊にうたれて、私は思わず戦慄《せんりつ》した。袂《たもと》にスケッチブックのあることを忘れた。もう西山までゆかなくともよいと思った。
 雪の山はトンネルのために、幾度となく隠れ、また現われた。その度ごとに、私は曇ったガラスを拭《ふ》いて、瞬時でも見逃がすまいと眸《ひとみ》を凝《こ》らした。三度五度、ついには全くその姿を失うて、車は大なるカーブを画き、南の方|無格恰《ぶかっこう》な富士の頂を見た時、夢から醒《さ》めたような思いがした。そしてこの時ほど富士山を醜く見たことはない。
 十二時半に甲府に着いて、すぐ鉄道馬車の客となった。今に
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