は近頃毎日配達されるが、甲府から四日目でなくては着かぬそうだ。

      六

 その夜は快く眠った。明くれば天長節、満空一点の雲もない好天気だ。裏の滝壺で顔を洗う、握飯を腰にして平林道の峠を上る、幾十折、雑木を抜けると焼畑がある。また林に入る。暑さに苦しみながら十四、五丁も上ると、北の方に忽然《こつぜん》雪の山が現われた。白河内《しろこうち》岳という白峰連山の一部であるそうだが、この時はやはり名を知らない。高く上れば多く見えるわけだ。脚《あし》は痛いが勉強して上る。初め三角形に白かった山は、肌が見えて来る。赭色をした地辷《じすべ》りも露われてくる。もう少しもう少しと上るうちに、南の方にもまた一つ白い峰が顔を出す。これは昨日見た悪沢《わるさわ》岳だ。更に上り上って、終に一里あまりも来て、大きな山毛欅《ぶな》を前景に、三、四時間ばかり一生懸命に写生をした。
 日は南へ廻って、雪の蔭は淡くコバルト色になる。前岳は濃いオルトラマリンに変る。近くには半ば葉の堕《お》ちた巨木の枝が参差《しんし》として「サルオガセ」が頼りなげにかかっている。朝から人にも逢わぬ。獣も見ぬ、鳥さえも啼《な》かぬ、山中の白日は深夜よりもなお静かである。
 写生が終った時は、日もよほど傾いた。元の道を下ること十余丁、山と前景の色の面白いところで、一枚のスケッチをして宿に帰った。まだ四時前なのに、もうランプが点《つ》いていた。

      七

 四日は曇っていた。今にも降りそうなので躊躇《ちゅうちょ》したが、十時頃出て見た。まず下の早川の岸へゆく、二、三丁のところだけれど、石道の急坂で、途中に水溜りもあるので、下駄《げた》ではゆけない。脚絆《きゃはん》もつけ草鞋も穿《は》いて武装しなければならない。坂を下ると人の住まぬ古家がある。たけ高き草が茂っている、家の前には釣橋がある、針金を編んで、真中に幅広からぬ板が一枚置かれてある。夏の頃、湯の客が毎晩来ては動かして遊んだとかいうので、足をかけるとグラグラと揺れて、僅か四、五間の板を蹈むにもよい心持はしない。
 渡り終って、左の崖の崩れを強《し》いて下ると小さな河原がある。上流から木を流す時、浅瀬に乗り岩に堰《せ》かれたおりに、水の中心に押やるため、幾人かの山人が木と共に下って来る。その人たちの歩む道が、砂の上岩の角に印を止めている。粘板岩というのであろう。薄く剥《は》がれる黒い大きな岩を越えると、水際で、澄みわたった水は矢よりも早く流れてゆく、あたりには青い石も赤い石もある。霧のかかった上流の山、紅に染まった両岸の林、美《うるわ》しい秋の絵が一枚出来そうである。
 私は、刻んで動く水を好まない。この川の上流は野呂川とよばれて、水は油のように、山影を浮べたまま静かに静かに流れているという、私はそういうところを画きたいが、この空模様で二里三里の奥へゆく勇気もなく、終にここの河原に写生箱を開くことにした。
 空は漸く暗くなって、水の色が鉛のように光る。霧の霽《は》れた山はおりおり頂を見せる。足下に流るる水を筆洗《ひっせん》に汲んで鼠色の雲を画き浅緑の岩を画く。傅彩《ふさい》画面の半ばにも至らぬころ、ポツリポツリと雨は落ちて来て、手にせるパレットの紅を散らし紫を溶かす、傘をかざしてやや暫くは辛抱したが、いつ歇《や》むとも思えぬ空合に、詮方なく宿に帰った。
 この夜、大雨の中を、宿のおかみさんは青柳から帰って来た。このあたりでは、六、七歳位いまでの子供を「ボコ」という、その「ボコ」を二人連れて、七里の山道を、天長節のお祭見物に青柳へ泊りがけで往っていたのだという。女中のお吉さんは、雨のふりしきる中を、一里あまり峠上の飴の茶屋まで出迎にゆき、「ボコ」を負うて帰って来たが辛かったとこぼす。お吉さんはさっぱりとした気性の、よく働く娘で、平林のものだという。おかみさんのお伴に往ったお春という女中も帰って来た。「お祭は面白かったかね」と問うたら「往きにも帰りにも、また青柳でも『ボコ』を背負い詰めで、何の面白いどころかからだが砕けそうだ」とこれも少からず不平をいっていた。

      八

 晩秋は雨の少い季節だのに、五日になってもまだ降っている。うす暗い座敷で写生を突ついたり書物を見たりして暮らす。ラスキンの伝記も見た。トルストイの「ホワット・イズ・アート」も読んだ。昼前に若い一人の男が来て、兎を一羽買ってくれという。副食物の単調に閉口しているおりだから早速三十銭で求める。いろいろ近所の山の話をして男は帰った。
 昼には兎を煮てきてくれた。おかみさんは鍋を火鉢にかけながら、兎の価が高いというてうるさいほど口小言をいう、こちらはそんなことはかまわない。塩引鱒《しおびきます》や筋の多い牛の「やまと煮」よりは、この方が結構である。
 
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