石で、右に近いのは御馴染《おなじみ》の白河内らしい。他は近所にある小山に遮《さえぎら》れて、残念ながら目に入らない。二時間ほどにして山を下った。
「官員サンの黄八丈は、草の実が一ペエだ、俺らハタいてくれるぞよ」とよしえは丈よりも高い箒《ほうき》を持って来た。囲炉裡の側で昼食をたべる。昨夜と同じ里芋汁だ。昨夜も今朝も、薄暗らがりのなんとも思わなかったが、昼間見ると、茶碗の底に泥が沈んでいた。
二十二
池の茶屋を出たのは一時過ぎであったろう。これからは平凡な下り道ではあるが、荷が重いので休み休みゆく、道には野菊、蔓竜胆《つるりんどう》など、あまた咲き乱れて美《うるわ》しい。彼方是方に落葉松の林を見る。奈良田のそれに比して色劣れど、筆|執《と》らまほしく思わるるところも少からずあった。池の茶屋より二里あまりにして、四時頃平林の蛭子《えびす》屋という宿に着いた。
「農事に忙しい時嫁は風邪で寝ています。一向お構い申されませぬ」とクドクドいいながら、六十ばかりの婆さんが洗足の水をとってくれる。通されたのは奥の十畳、昔は立派な宿屋らしく造作も悪くはない。
座敷の正面には富士が見える。よく晴れた夕で、緑色の空に浮出した白雪は紅色に染められた。刻一刻、見る間に色は褪《あ》せて、うす紫に変るころには、空もいつか藍色を増して暗く、中天に輝やく二、三の星は、明日も晴れぞと、互いに瞬《まばたき》して知らせあっている。
膳を運び、飯櫃《めしびつ》を運んで来た婆さんは、「どうぞよろしく」とそのまま引き下がった。見ればこれも旧式の、平《ひら》もあれば壺もある、さすがに汁には泥も沈んでいない。快よく夕飯を終りて、この夜は早くより寝床に入った。湯島では一日に二度ずつも入浴した罰で、今晩も風呂はなかった。
二十三
十三日はうす曇りであった、富士は朧《おぼ》ろげに見える。
平林の村は、西と北とに山を負うて、東が展《ひら》けている。村の入口から出口までダラダラの坂で、道に沿うて川があるため、橋の工合、石垣のさま、その上の家の格恰《かっこう》、樋、水車なんどが面白い。下から上を見ると、丘の上に寺があったり、麦畑が続いたり、ところどころ流れが白く滝になって見えたりする。上から下を臨むと、村の尽くるところに田が在る、畑がある、富士川の河原の向うには三坂女坂などの峠が連なって、その上に富士が見える。大きな景色もあるが、小さな画題は無数である。
鎮守の鷲尾神社にゆく、二百階も石段を登ると本社がある。甲州一と里人の自慢している大杉が幾株か天を突いて、鳥一つ啼かぬ神々《こうごう》しき幽邃《ゆうすい》の境地である。
社前に富士を写す。すぐ前の紅葉せる雑木林がむずかしい。去って村の水車の傍で、白壁の土蔵を写す。
夕方宿へ帰る。農家の忙しい時で、家には誰もおらぬ、草鞋を脱ぎ座敷へ戻っても、火も茶も持って来ない。御客の帰ったのも知らぬからで、暢気《のんき》なものである。
翌朝は天気、居ながらにして見る富士は美《うるわ》しい。嫗《ばあ》さんは朝のお茶受にとて、花見砂糖を一鉢持って来た。
二十四
十四日の八時半平林を発足して、山際を川に沿うて下ると、一里ほどで舂米という村に出た。人家二、三十、道路山水としては格別面白くはないが、川沿の柳の色がいかにもよいので、三脚を据えた。
川には殆ど水がない。その岸にある四、五本の柳は、明るいオレンジの色をして並んでいる。背景は甲州盆地の平原で、低い山がうす霞んで、ほんのりと紅味を帯びた空は山にも木にもよく調和していた。何処を見ても物の色は佳《よ》い。暗く影の深い鎮守の森、白く日に光る渓川の水、それを彩《いろど》るものは秋の色である。高くもあらぬ西山の頂きは、もはや冬で、秋はこの麓の一画に占められている、道もせの草にもその色はある。
青柳の町を、遥かに左に見て、堤の上をゆく。槻の並木の色は比《くら》ぶるものもない美《うるわ》しさである。堤の尽くるところに橋がある、鰍沢の入口で、ここにまた柳を写生した。
粉奈屋へ帰ったのは午後の二時。
富士川通船の出るあたりに往って見たが、絵になるような場所はない。
十五日は曇っていた。七時半に馬車へ乗り、甲府へ向う。白峰はチラチラ頭を出す、乗合の人は、甲府の近所から越中の立山が見えるという。
甲府を十一時発の汽車で東に向う。雲が深くなったので白峰は見えない。沿道の紅葉は少し盛りを過ぎたのか、色が悪い。
汽車の窓から外の景色を見ると、どんなところでもよく纏《まと》まって見える。窓一つ一つが立派な絵になる。すると、甲府から東京まで、何万枚の絵でも出来そうなものだが、さて汽車から下りて見ると、絵にするところは存外少い、なぜであろうか。
車窓から見て
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