ったまま囲炉裡の傍へゆく。退屈紛れに、このお茶ッピーでもと思って、スケッチブックを出す。おかみさんはこれを見て「よしえ早く隠れろ!」と、けたたましい声で叫ぶ、「そんな見ぐさい風して写されては叶わんぞ。池の茶屋の『ボコ』はこんなだと、東京へ持って帰って話されたら困るに、早や着物を着かえさすに、こっちへ来う」という、「あの黄八丈の着物かや」とよしえは大喜びだ、大変なことになってしまった。明日だ明日だと、私は大急ぎにスケッチブックを袂《たもと》に蔵《しま》った。
亭主は小さな「ボコ」を抱いて、囲炉裡で飯を炊《かし》ぐ。おかみさんは汁を造るべく里芋を洗う。そして皮つきのまま鍋の中に投げ込む。塩引鱒が焼かれたが、私はそんなものに用はない、宿の人たちとともに、焚火の傍で夕食をすました。
亭主は突然口を切って、「平林から先年東京へ出た人があるが、東京も広いそうだから御存知あるまい」という。「有名な人か」と聞いたら、「村で失敗して、夜逃げのようにして往ったのだ」という。人口二百万という数は、この人たちには見当がつくまい。東京を鰍沢の少し大きい位いに思っているのかもしれぬ。
おかみさんは、「俺《お》れは何の願いもない、たった一度でいいに、東京を見て死にたい」という。お喋《しゃべ》りの「ボコ」はすぐ口を出す。「俺ら東京へゆくぞよ、東京へ往って、年イ拾うてデカくなるンぞ、俺ら年イ拾うてデカくなると、カッカはバンバになるぞ」という。
話はそれからそれへと移る。平林の村は殆ど日蓮宗であること、自分たちは冬になると平林へ帰ること、池の傍だけに寒さの強いということ、この池から氷が採れる、厚く張る時は二尺を超える、一尺の氷の下に置いた新聞も読めるほど透明であるということ、これから先は、毎日この家に日はあたらぬ、雪もかなり深いということ、先年東京から祭文《さいもん》語りが来て、佐倉宗吾の話をした時、降り積む雪は二尺あまりというたので、気早の若者は、馬鹿を吐け、山の中じゃああるまいしと、大いに怒って撲《なぐ》りつけたという。「東京でも所によると二尺位い積った年もあった」というたら、亭主は「へへー、それじゃ祭文語りは可愛想《かわいそう》でした」と大笑いをした。
おかみさんは、商売物の水飴を箸《はし》に巻いてはしきりに勧《すす》める。「よしえボコ」は絶えず口を動かしていたが、終に牀《ゆか》の上から入口の土間に小用して、サッサと寝床へ入ってしまった。
「寒いおめはさせません」と、おかみさんは、小ざっぱりした蒲団を出して、幾枚も重ね、幾枚もかけてくれた。寝衣はないから、外套を脱いだばかり、着のみ着のままで横になる。雨戸もない窓の障子の、透間から吹き込む風はかなり冷い。
二十一
早川の山小屋よりも寝心地が悪い。柱時計の音は、十を数え十一を数え、十二を数えた。山中の夜は静かで、針を刻むセコンドは殊更に冴えて耳元に響く。やがて一時が鳴る。すぐ上の塒《ねぐら》では一番鶏が啼《な》く。ウトウトしながらも、二時三時と一つも聞き洩さずに一夜を過した。
窓が白む。ランプが消される。囲炉裡からは白い煙が立つ。一同が起きた。昨夜と同じく、榾火《ほたび》にあたりながら朝食をすます。「よしえ」は母親を急き立てて、黄八丈を出せという。昨日のことを忘れないのだ。母親も忙しい中を、剃刀《かみそり》出して「よしえ」の顔を剃《そ》る、髪を結ぶ、紅いリボンをかける。木綿の黄八丈はいつの間にか着せられて、友禅モスリンの帯が結ばれた。座蒲団を敷いてチョコンと座って「サー官員サン写してもらうぞえ」と腮《あご》を突出し、両手を膝の上に重ねた。
絶体絶命、モデルの押売、今更|厭《いや》ともいえない。スケッチブックを出して簡単な鉛筆写生、赤いのや青いのやを塗りつける。どうしたはずみか顔がよく似たので、当人よりは両親のほうが大喜びだ。手帳から引き裂いてやる。寒い朝で、池の氷は二寸も厚さがある。戸外は真白な霜だ。前の山に上ると富士がよく見える。雪は朝日をうけて薄|紅《くれない》に、前岳はポーと靄が罩《こ》めて、一様に深い深い色をしている。急いで写生する。
写生が終って、ふと西の方を向くと、木立の間から雪の山がチラと見える。思いがけない、もっと高いところをと見廻わすと、茶屋の後に大きな草山がある、気もそぞろに駈け上る。元より道はない。枯草を分け熊笹の中を押してゆく、足元から俄《にわか》に二つの兎が飛び出す。そんなものには目もくれず上へ上へと進む。汗はタクタク流れる。熊笹は尽きて雑木の林になる。蔓《つた》が絡《から》む、茨《いばら》の刺《とげ》は袖を引く、草の実は外套からズボンから、地の見えぬまで粘りつく。
辛うじてかなりの高所へ出た。栂の根元の草の中に三脚を据える。前に見えるのは悪沢と赤
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