々鮮かなコバルトの空も見えた。宿を出たのは八時半、峠の上までというので、宿の若い人に荷物をたのむ。来路を避けて七曲峠を、池の茶屋へ出で、鰍沢に向うのである。
 天長節に上った峠、それと同じ道で、通例曲折の烈しきところを、よく九十九折《つづらおり》などと形容するが、ここは実に二百余を数えた。あいにくの霧は南の空を掩うて、雪の峰は少しも見えない。
 一里ほどで栂《つが》の林となる、ジメジメと土は濡れて心持がわるい。折々白い霧は麓から巻き上げてきて、幹と幹との間を数丁の隔たりに見せる。峠を越して少し下り道のところで若者に別れ、これからは独りでかなり重い道具を担《かつ》いでゆく。何処《どこ》も霧で、数間先もよく見えぬ、心細いこと夥しい。
 雨後奇寒のために出来た現象であろう。道端の木々の枝は、珠《たま》と連なる雨水が、皆凍って、水晶で飾ったように、極めて美《うるわ》しい。木の葉には、霧は露となり、露は凍って、氷掛けの菓子のようになって、枝にしがみついている。時ならぬ人の気配に驚いてか、山鳥が近くの草叢《くさむら》から飛出す。ハタハタと彼方に音するのは、鳩であろう。山毛欅《ぶな》の大木に絡《から》む藤蔓《ふじづる》、それをあなたこなたと跳び走っているのは栗鼠《りす》である。
 熊笹を分けて一筋道をゆくと、往手に新しい家が見える、飴の茶屋というのはこれであろう。戸は閉されてだれも人はおらぬ。青柳へ下って帰らぬので、冬は大かた里にいるという。
 茶屋の前から道は三筋に分れる。池の茶屋へゆくもの、デッチョーの茶屋へ向うもの、他の一つは奈良田へゆくのである。私は左を取って池の茶屋へ向った。
 空模様はだんだんよくなり、折々はパッと日が照らす。山腹の岨道《そわみち》を何処までもゆく、少しずつの下りで足の運びは早い。
 湯島から三里も来たころ、枝振《えだぶり》よき栂の枯木を見つけて写生する。すぐ近くの笹の中では、藪鶯が一羽二羽、ここに絵筆走らす旅人ありとも知らで、ささ啼《な》きの声が忙《せわ》しない。
 池の茶屋に着いたのは一時半であった。

      十九

 山陰の窪地に水が溜っている、不規則な楕円形の、広さは一反歩もあろう、雑木林に囲まれて水の色は青い。湯島のお吉さんは凄い池ですといったが、枯木林の中にあったのでは、一向凄くも怖しくもない。茶屋に荷物を預けて、ジクジクした水際の枯草を踏み、対岸に廻って写生箱を開いた。
 破れかかった家は、水に臨んでその暗い影を映している、水の中には浮草の葉が漂うている。日は山蔭にかくれて、池の面を渉《わた》る風は冷い。半ば水に浸されている足の爪先は、針を刺すように、寒さが全身に伝わる。思わず身慄《みぶるい》するとき、早や池の水は岸近くから凍り始めて、家の影はいつか消え失せ、一面|磨硝子《すりガラス》のようになる。同時にパレットの上の水が凍って絵具が溶けない。筆の先が固くなる。詮方なしに写生をやめた。
 池の茶屋というのは、この冷い水の滸《ほと》りに建てられたるただ一軒の破《あば》ら家である。入口の腰障子を開けて入ると、すぐ大きな囲炉裡がある。囲炉裡の中には電信柱ほどもある太い薪木が燻《くすぶ》っている。上に吊された漆黒な鉄瓶には、水の一斗も入るであろう。突当りは棚で、茶碗やら徳利やら乱雑に列《なら》んでいる、左の方は真暗で分らないが、恐らく家族の寝間であろう、ここでも飴を売るかして、小さな曲物が片隅に積んである。
 おかみさんは盥《たらい》に湯をあけてくれた、凍りきった足にはまたとなく快よい。通されたのは池に面した座敷で、形《かた》ばかりの床の間もあれば、座敷ともいえようが、ただ五、六枚の畳が置いてあるというだけで、障子もなければ襖《ふすま》もない。天井もない。のみならず、数十羽の鶏の塒《ねぐら》は、この部屋の一部を占領して高く吊られてある。
 五、六枚畳んで重ねられた蒲団の上には、角材をそのまま切って、短冊形の汚れた小蒲団を括《くく》りつけた枕が置かれてある。その後の柱には、この家不相応な、大きな新しい時計が、午後三時を指している。床の間には、恐れ多くも、両陛下の御肖像を並べて、その下に三十七年宣戦の詔勅が刷られてある。そして床の落し掛けから、ホヤの欠けた、すすけたランプが憐れっぽく下っている。
 主人夫婦に子供二人、その姉娘は六ツばかりになろう。この「ボコ」はその名を「よしえ」とよばれて、一方ならぬお茶ッピーだ。小さな火鉢に、榾火《ほたび》の燃き落しを運んで来る。「官員サンに何か出さねーとわるいぞよ――、小寒いに――、火でもくれないとわるいぞよ」という。洋服を着けた人は誰でも官員サンである。

      二十

 よしえのいう通り、この小寒いのに、少しばかりの消炭ではやりきれない。灰が起つので帽子を冠
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