、早川の渓音が幽《かす》かに、遠く淙々《そうそう》と耳に入る。
 薪《たきぎ》は太きものが夥《おびただ》しく加えられた、狭きところを押合うように銘々横になる。宗平と宗忠は、私に遠慮して、入口近く一団となって寝ている。枕は「メンパ」であろう。宗忠の持ってきた怪しげな縞毛布が、二人に一枚かけられてある。私は、彼らが手にとって見て、ゾッキ毛糸だと驚いた厚《あつ》羅紗《らしゃ》の外套を着たまま、有合せの蒲団を恐る恐るかけた。枕は写生箱の上に、新しい草鞋、頭が痛いので手袋を載せた、箱が辷って工合がわるい。
 いずれも足は囲炉裡の中へ、縮めながらも踏込んだままだ。榾火が消えかかると、誰か起きては薪を加える、パチパチと音して、暫くは白い煙がたつ、パッと燃え上る、驚いて足を引っ込めるが、またいつか灰の中に入って、足袋の先を焦《こ》がすのであった。
 小屋には牀《とこ》はない、土の上に莚《むしろ》を敷いたばかりだが、その土は渓の方へ低くなっている。囲炉裡に足を入れていては、勢い頭は低い方に向く、頭の足より低いのは、一体|心地《ここち》のよいものではない。身体は崖の方にズリ下る、ズッてズッてそのまま早川渓へ堕《お》ち込むような気がして、夢はいく度となく破れる。何やら虫がいて、襟から手元から、そこらあたりがむず痒《がゆ》い。右を下にした、左を下にした、仰向《あおむ》いても見た、時々は吾《われ》知らず足を伸ばして、薪木を蹴り火花を散し、驚いて飛起きたこともあった。
 宗平兄弟も、鼾《いびき》の声はするがよくは眠らぬらしい、絶えず起きては火を消すまいとする。おかげで少しも寒さを覚えなかった。サラサラと板屋をうつ雨の音がする。烈《はげ》しくは降らぬが急に歇《や》みそうにもない。井川の山々は、何故私に逢うのを嫌うのだろうと情なくもなる。

      十六

 無造作に押よせた入口の草の戸、その隙間《すきま》から薄明りがさして、いつか夜は明けたらしい。起きて屋外へ出たが、一面の霧で何も見えない。西山東山、そんな遠くは言わずもがな、足許《あしもと》の水桶さえも定かではない。恐しい深い霧だ、天地はただ明るい鼠色に塗られてしまった。
 顔を洗うことは出来ない、僅かに茶碗に一杯の水で口を漱《すす》いで小屋に入る。宗忠は飯を炊き始める。水桶に移すと、今度は宗平が飯を炊く、見ると湯の沸いた中へ、一升ばかりの粟を入れる。村では少しの麦を加えるそうだが、山上では粟ばかりだという。どんな味かと聞たら、温いうちはよいが、冷えたらとても東京の人には食べられまいという。
 今朝は汁もない、辛い味噌漬二切で食事をすます。
 暫く焚火を囲みながら、天気の模様を見る。
 霧は晴れそうにもない。沢のほとり、林のあたりで、何やら冴えた声で鳥が啼《な》く。うっとりとよい心持になる。歌舞伎座も八百膳も用はない。このまま一生ここにいても悪くはないと思う。が、そうもならない、この霧は昼過ぎにでもならねば晴れまいという。残念だが六万平を思い捨てて湯の宿へ帰ることにした。
 霧の中を下へ下へと急ぐ、急に明るくなって、遠くの山が一角を現わすかと見ると、忽ち暗くなって、すぐ前の林をかくす、歩一歩、早川渓の水声が高くなって、吾らはいつか宗平の家の前に立った。
 俄に雨が降り出したので、洋傘を借りて、霧繁き草道を、温泉へ帰ったのは十時頃であった。
 昨夜帰らないので、宿では迎いを出そうとしたそうだ、しかし宗忠もついているから、たぶん湯島へ泊ったことと、終に見合せたといっていた。
 生温くとも湯に入った心持はわるくはない。

      十七

 九日には曇っていたが、降りそうにもないので、前日見ておいた湯島河原の小流を写そうと思って、九時頃から出かけた。上湯島に渡る釣橋の手前で、河原を少し跡へ戻ると若杉の森があって、その下に細い流れが見える。流れに掩《おお》い冠さっている秋草の色が美《うるわ》しい。ここで縦《ほしいまま》画を描きはじめて四、五時間を送った。
 十日には出発の予定であったが、朝起きて見れば、すさまじき大雨で終に見合わせた、昨夜は満天に星が輝いていたのに、秋の空は頼みがたいものだと思う。
 清かりし湯川の水も濁り、早川は褐色に変って、水嵩《みずかさ》も常に幾倍して凄い勢いであった。
 湯島温泉の長所は、気候の温和なため、秋の紅葉が長く見られること、宿の気の置けぬことなどで、短所は、ちょっと出るにも武装をせねばならぬ不便、郵便のおそきこと、物価の安からぬことなどである。夜に入って大風吹きすさみ、梢《こずえ》を鳴らし枝を振う、紅葉黄葉、恐らくあとかたもなく早川の流に乱れて、遠く遠く南の方に去り、一夜にしてこの渓を冬に化せしめしことならんと思いつつ夢に入る。

      十八

 十一日は、霧の間に所
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