私は草鞋を解いて初めて快よく足を伸した。
日のくれぐれに一袋の米と味噌《みそ》を背負って宗忠は帰って来た。ここは狭いから老人は下の小屋へ泊るというて、何やら入った袋をさげて下りてゆく。宗忠は鍋の中で米を磨《と》ぐ、火にかける、飯が出来たらそれを深い水桶にあけて、その跡へは味噌をとき、皮もむかぬ馬鈴薯《ばれいしょ》を入れて味噌汁をつくる。私の好奇心は、宗忠の為事《しごと》に少からぬ興味を覚えた。
戸外に足音がする、明けて見ると、闇の中を宗忠の兄の宗平が帰って来た。六万平近く山仕事をしていたが、夕方に出た雲が気になるので帰って来たのだという。雲とは何、せっかく山中に泊って雨では困るが、これも詮方《せんかた》がない。
三人で食事にかかる、手ランプには少し油があったので、それをともす。写生箱は膳の代りとなり、筆は箸《はし》になる。二つの縁《ふち》の壊《か》けた茶碗、一つには飯が盛られ、一つには汁がつがれた。宗平兄弟は「メンパ」とよぶ弁当箱を出して、汁を上から掛けては箸を運ぶ。
土もついているらしい薯《いも》の汁も、空腹《すきはら》には珍味である。山盛三杯の飯を平げて、湯も飲まずに食事を終った。彼らの手にせる「メンパ」というのは、美濃方面で出来る漆で塗った小判形の弁当箱で、二合五|勺《しゃく》入りと三合入りとある。山へ出る時は、二つもしくは三つを持ってゆくという。彼らの常食は、一日七、八合、仕事に出た時は一升が普通だときいては、如何に粟や稗の飯でも、よく食べられたものだと感心する。
十四
山小屋の秋の一夜。私はツルゲネフの『猟人日記』を思いうかべつつ、再び遭《あ》うことの難かるべきこの詩的の一夜を、楽しく過さん手段を考えた。
窓近くに鹿が鳴いたら嬉しかろう。係蹄で捕れた兎の肉を、串にさして榾火《ほたび》で焼きながら、物語をしたら楽しかろうと思った。囲炉裡《いろり》の火は快よく燃える。銘々《めいめい》長く双脚を伸して、山の話村の話、さては都の話に時の移るをも知らない。
宗平は真鍮《しんちゅう》の煙管《キセル》に莨《たばこ》をつめつつ語る、さして興味ある物語でもないが、こうした時こうした場所では、それも趣《おもむ》きふかくきかれたのであった。
猟の話から始まる。
昔は、羚羊も、鹿も、猪も、熊も、猿も、狼も、里近くまで来た、その数も多かったが、近頃は殆ど姿も見せぬという。猿は山畠に豆をとりに来るが、その数も少くなったという。数年前、信濃の猟師が、この山で大熊を捕えたが、格闘のとき頬の肉を喰い取られた。熊は百金に代えられたものの、頬の治療に八十五円を費やし、結局三、四ヶ月遊んだだけの損であったという。
湯島村の経済に話は移る。
貧しい村で、農産物は少しばかりの麦、粟、稗、豆のたぐいと、僅かの野菜にすぎぬが、それでも村で食うだけはある。いずれも山畠で、男の児は十二、三になれば、夏は一日一度は山畠に出る。砂糖もなく、菓子もなく、果物もない、この土地の子供は気の毒なものだ。夏の野に木苺《きいちご》をもとめ、秋の山に木通《あけび》や葡萄《ぶどう》の蔓《つる》をたずねて、淡い淡い甘味に満足しているのである。
家々の生活は簡単なもので、醤油《しょうゆ》なければ、麦の味噌はすべてのものの調味を掌《つかさど》っている。鰹節《かつおぶし》などは、世にあることも知るまい、梅干すらない。
早川はあっても魚は少い。このように村は貧しいが、また天恵もないではない。湯島の温泉から年々いくらかの税金も取れる、早川から冬は砂金が採れる。交通が不便のお蔭に物入りもなく、貧しいながらも困っているものは一人もないという。この兄弟も、銘々懐中時計を持っている。宗忠の家にも大きなボンボン時計があった。
このように、碌なものは食わないが、それでも皆丈夫で、医者は一人もいないが病人もない。奈良田でも湯島でも、徴兵検査に不合格は殆どないと誇っている。
牛を知らぬ、馬を知らぬ、人力車、馬車、自動車、汽車、電車、そんなものは見たことがない、車というのは水車のことで、小舟さえないから、汽船も軍艦も画で想像するばかり、もちろん白峰の頂上へでもゆかなければ海も見えない。東京を西に距《へだた》ること僅かに三十里、今もなお昔のままの里はあるのだ。
十五
話に実が入って夜は十一時になった。便所はときくと、この小屋の渓《たに》に向った方に板がある。その上からという。「蝋《ろう》マッチ」をてらして辛うじて板の上へ出たが、絶壁にも比すべきところに、突き出された二本の丸太、その上に無造作に置かれた一枚の薄板、尾瀬沼のそれにも増した奇抜な便所に、私は二の足を踏まざるを得なかった。空はと見上げれば星一つない。雲の往来も分らぬ、真の闇でそよとの風も吹かぬ夜を
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