サイダー」にもまさる清水を、惜気もなく与えているのである。漸くにして樹木のまばらなところへ来た。沢を隔てて遥かの木立に、カラカラと石の崩れ落ちる音がする。宗忠は木の切株に上って見つめている。羚羊《かもしか》か猿だろうという。カラカラという音は四辺の寂寥を破って高くきこえる。羚羊の姿が見えるという、仔《こ》を連れているという、しかしここからはあまりに遠くて、弾丸は届くまいと残念そうである。沢川の根というところは少しく平になっている、数年前会社で木を伐《き》り出した時に、六尺幅ほどの林道を作ったその跡だという。道は今|甚《はなはだ》しく崩れて、人も通れぬが、この辺にはそれらしい様子は見える。
 西山連峰の上を、富士が高く現われている。北には地蔵薬師等の山々が、重なり合うて、前岳の大崩れは、残雪のように白く輝く、やや西へ寄って白河内の山が鮮かに姿を出している。ここで昼食をすませ、スケッチを試み、暫時休息した。
 目的地の六万平はなお半里の西で、これから往ったのではただちょっと見て来るだけで、絵など描いていては、温泉へ帰るのは夜になると宗忠は心配気にいう。足下《あしもと》の悪い道を夜になって帰るのは好ましくない。この辺に小屋があらば今夜は泊って、明朝早く六万平へ往こうと決心した。幸い半道ほど下に宗平の家の小屋があるというので、疲脚を鞭うって下山した。
 落葉の道は、上りよりも下りはいっそう歩み悪い、ともすれば辷りそうで、胸を轟《とどろ》かしたことも幾度かある、来た道を右に折れてトンボの小屋へ着いたのは三時頃であったろう。

      十二

 トンボの小屋は、下湯島村から一里の、切立ったような山の半腹にあるので、根深き岩の裾《すそ》を切込み、僅かに半坪ほど食い込ましてあとの半坪は虚空《こくう》に突出してある。極めて小さな、そして極めて危険なものだ。僅か一坪の平地すらないこの辺の地勢から考えても、その勾配の急なことが知れよう。
 ここは村から一番奥の焼畑で、あまりに離れているので、畑仕事の最中の俄雨《にわかあめ》に逃げ込むため、また日の短い時分、泊りがけに農事をするためにこしらえた粗末な建物にすぎない。焼畑というのは、秋に雑木林を伐り倒し、春に火をかけて焼く。そして燃残りの太い幹で、一間置きまたは二間置き位いに柵《さく》を造って土留として、六、七十度の傾斜地を、五十度なり四十度なりに僅かずつ平にして、蕎麦《そば》、粟、稗《ひえ》、豆の類を作るので、麦などはとても出来ぬ。もしこの焼木の柵を離れたなら、足溜りがなくて、直立していることは出来ない。山なき国の人は畑は平なものと思っていよう。私もかつてはそう思った一人であった。この辺の人々は、畠は坂になっているものと思っていよう。田もない池もない、早川や湯川や、滝のように流るる姿を見ては、水も恐らく平のものとは考えていないかも知れない。
 焼畑は、その焼灰が肥料となって、三、四年は作物も出来る。それから後はそのまま捨ておいて、十七、八年目に更に同じことを繰返すのだという。
 宗忠は、暮れぬ間に湯島へ往って、今夜の食料を持って来るという。湯島へゆくなら何か駄菓子でも買って来よといえば、そんなものは村にはないという。砂糖でもよいといえば、正月か祭の時ででもなければ誰の家でも持たぬという、なるたけ早く帰りますと言捨《いいす》てて、猿の如く麓を目がけて走り去った。
 秋の西山一帯は、午後三時の日光をうけてギラギラと眩《まぶ》しいように輝いている、常磐木の緑もあろう、黒き岩もあろう、黄なる粟畑もあろうが、それらは烈しき夕陽に、ただ赤々と一色の感じに見える。その明るい中を、トンボの小屋はちょうど山蔭にあるので、クッキリと暗く、あたかも切り抜いて貼《はり》つけたように、その面白き輪廓を画いている。私は兎の係蹄《けいてい》の仕掛けてあるほとり、大きな石の上に三脚を立てて、片足は折敷いて、危うき姿勢に釣合《つりあい》をとりながら、ここの写生を試みた。

      十三

 輝き渡っていた西山も、しだいに影が殖《ふ》えて、肌寒くなって来たので写生をやめ、細い道を伝わって小屋に来た、小屋には宗忠の父なる人がいて、火を燃して私を待っていた。遥かの谷底から一樽の水も汲んで来てくれた。
 小屋は屋根を板で葺《ふ》いて、その上に木を横たえてある。周囲は薄や粟からで囲ってある。中は入口近くに三尺四方ほどの囲炉裡《いろり》があって、古莚《ふるむしろ》を敷いたところは曲《かぎ》の手《て》の一畳半ほどもない。奥の方には岩を穿《うが》って棚を作り、鍋やら茶碗やら、小さな手ランプなどの道具が少しばかり置かれてある。部屋の隅には脂《あぶら》に汚れた蒲団《ふとん》が置いてある。老人はやや醜《みにく》からぬ茣蓙《ござ》を一枚敷いてくれた。
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