物として私の最も好む山百合、豌豆《えんどう》の花、白樺、石楠花《しゃくなげ》のほかに、私は落葉松という一つの喬木《きょうぼく》を、この時より加えることにした。
一時間ほど筆を走らせて更に上流へと歩を進めた。五、六丁にして道は左の沢に入る。ここで早川の本流と別れて、この沢に沿うてなお深く入り込む、岸が尽きて危うき梯子《はしご》を懸《か》けたところもある。渓の上にただ一本の木を橋に渡したところもある。かかる山懐《やまふとこ》ろにも焼畑はあって、憐れげな豆や粟《あわ》が作られている。そのまた奥には下駄を造る小屋もある。山人の生活は労多きものである。
往けども往けども白河内の山は見えない。あの高きところへ上ればと、汗ぬぐいつつ辿《たど》りつけば、更に木立深き前山が、押冠さるように近々と横たわっている。道も漸く覚束《おぼつか》なく、終には草ばかりになってしまう、帰りの時間も気遣《きづか》われる、足も痛み出した、山の見えぬのは残念だが終に引返すことにした。二十丁も戻って初めの沢近く来た時、ふと前面を見ると、例の落葉松の深林が背後から午後の日をうけてパッと輝いている。根元の方にも日の光は漏れて、幹は黒々と、葉は淡きバアントシーナを塗ったように、琥珀《こはく》色に透明して、極めて美《うるわ》しい。画きたい画きたいと、一度は三脚の紐《ひも》を解いたが、帰り道の崖崩れを思うと、何となく急き立てられるようで、終に筆を採らずにしまった。
危うい崖道も、来た時よりはらくに過ぎて、湯川近くに二日前の写生を続けた。二日前は曇った日で、今日は晴れている。調子は異《ちが》うが、日が傾いて谷は暗く、水色も同じに見えるので少し無理だが仕上げることにした。
この日はかなり長い道を歩いた、膝の関節が痛い。
十一
下湯島の猟師に、大村晃平、中村宗平というのがある。烏水氏らの案内をして、幾度となく白峰の奥へ往った人たちだ。晃平は中風《ちゅうぶう》病で寝ている。宗平は山仕事が忙しい。宗平の弟に宗忠というのはこの夏山岳会の人たちの赤石縦走を試みた時、人夫として同行したという。その男は職業は大工でいま新潟の仕事に来ている。いろいろ山の話をきくと、下湯島の対岸を上ること一里半ほどで、六万平というところからは、井川の山々(白峰連嶺)、またその先の赤石の方までもよく見えるという。朝早く出れば夕方には帰れようというので、七日の朝、私は宗平を連れてそこにゆくことにした。
晴れた日であった。写生箱画板など、いささかな荷物を宗平の背に托して、早川に沿うて下流へと歩を運んだ。道もせに咲き残っている紅の竹石花、純白の野菊、うす紫の松虫草などとりどりに美《うるわ》しい。上湯島の少し手前から河原に下りる、山崩れの跡が幾カ所かあった。道は平ではない。早川の水が堰《せ》かれて淵を成すところ、激して飛瀑《ひばく》を成すところ、いずれもよき画題である。長い釣橋を右に見てそれを渡らずに七、八丁もゆくと、黒い黒い杉の森が見える農家の屋根、桑の畑、水車、小流、そこが下湯島の村で、石垣に沿える小道を通って、私どもは宗忠の家に立よった。
下湯島の村は、数年前全戸殆ど火の禍をうけたため、家は皆新しい。上湯島には萱葺《かやぶき》の屋根多きにここは板屋に石を載せて置く。家は小さいが木は多いから、さすがに柱は太い。村というても平地は殆どないが、やや緩《ゆる》やかな傾斜地に麦が作ってある。畑の中には大きな石がゴロゴロしている。家の廻りには鍬《くわ》の把《は》、天秤棒《てんびんぼう》、下駄など、山で荒削りにされたまま軒下に積まれてある。
宗忠は身仕度をして来た、なにか獲物《えもの》もあろうというので一|挺《ちょう》の銃も持っている。
早川を渡ると、すぐ急傾斜の小さな坂で、その上は畑が作られて、麦の緑は浅い。石道をゆき、草の中をゆき、いよいよ雑木茂れる山にかかる。道は落葉に埋められ、今朝おりた霜の白きもあり、融《と》けて濡《ぬ》れたのもある。とかく辷《すべ》り勝ちで足の運びは鈍い。
山の傾斜がいかにも急であるために、道は右に左に細かく縫《ぬ》うてつけられてある。小さな沢を渡って十四、五丁ゆくと、樹は漸く太く、針葉樹も変っている。人の踏むこと少きためと、寒さの早いために、落葉は道を埋めて、二、三尺も積もっている。カサカサと徒《いたずら》に音のみ高くて、泳ぐような足つきでは一歩を運ぶにも困難である。剰《あまつさ》え、二日以来足の痛みは、今朝宿を出た時から常ではないので、この急峻な山道では一方《ひとかた》ならぬ苦痛を覚えた。途中の用意にもと、宿から持って来た「サイダー」を一口二口飲みながら上る。「サイダー」は甘味があり粘りがあって極めて不味《ふみ》だ、かかる時は冷き清水に越すものはない、自然は山人に「
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