ではあるが、しだいに下って行く。右手の谷間には人家が現われた。小滝や銀山平であるらしい。八、九町も逆戻りするのは億劫《おっくう》であるから、左手の水の流れる窪を択んで、二丈近く伸びた唐松林の中も尾根の方へと登った。この登りは邪魔が多いので困難であった。登り着いた所は千四百四十九米の附近であったようである。此処からは道幅がますます広くなって九尺位もあったように思う。あるいは防火線を兼ねているのかも知れぬ。少し下ると今度は真直ぐな長い登りが続いて、五一、五二林班と記した杭のある所で、幅の広い道は終って、そこから左に幽《かす》かな小径が通じている。二、三尺もある枯すすきや小笹の中を押分け登って、千五百九十三米の三角点に達したのは十時であった。
雨はようやくしげく霧さえ加わって全く眺望を遮断《しゃだん》してしまった。十五分ばかり休んで出発。左側をからみ廻って一高所を踰《こ》える、雑木が繁って笹の深い所があった。まもなく唐松の林中でふっつり道は絶えてどうしても続きが分らない。千六百八十米の圏を有する山の南側であることはたしかだ。雨が強く降り出して来た。十二時近いので昼飯をすまし、少し下り過ぎたように思ったので、下草の枯れた林の中を濡れながら登って頂上の笹原に出た。そこには広い上に笹が深いので容易に路が見当らない。二人で三十分もかかってようやくそれらしいものを探しあてる。下ってまた登り、一小隆起を超《こ》えて、小高い山の右側を廻り、ちょっとした鞍部に出る。ここまではとにかく地図の点線の道とほぼ一致した処をたどって来たに相違ないと思う。地図ではここから道が尾根の北側を廻って、今までと大差ない路跡がついている。もっとも樺や笹がかなり生えているので歩行を妨げられるが、藪の中よりはずっと楽である。しかもほとんど等高線に沿うた路で、きわめて緩徐な登りであるから、歩いていてもそれと認められないほどである。始《はじめ》はこの道も地図に表わせない程度に右に廻ってから、尾根に出るものと思っていたが、行けども行けども同じような路の連続で、ただ悪いことには笹が追々にひどくなって来る。ここに至て地図の道とは全然違っていることを確めたものの、もうそのまま前進するより外に仕方がない。とかくして路は岩石の露出したかなりの水量ある沢に突当って全く絶えてしまった。あたりに木を伐った痕《あと》がある。沢を横切って向う岸に移り、少し行くとまた小沢がある。それを過ぎてから山のひらを左斜に登ろうと試みたが、笹が深いので歩けない。それで沢を上ることに決めて、引返して小沢を登り始めた。百五十米も登ったろうと思う頃、沢が尽きて一の尾根に出た。自分らはこの時根利山の最高点をきわめることは断念して、国境の尾根へ出たならば上州峠の道に下って砥沢へ行こうと相談一決したので、この尾根を国境山脈と想定して、右の方へ下りはじめた。しかるに余り下り方が激しいので疑わしくなり、とにかくもう少し高い方へ登って見ることにして、かなり急峻な斜面を百米も登ると頂上らしい所に出た。潮のようにさしひきする霧の絶間から眺めると、左の方に尾根らしいものが続いている。これこそ国境山脈に相違あるまいと断定して、右即ち北に向って尾根上を辿り出した。何しろ二人とも磁石を持っていなかったので、さっぱり方角は分らず、今までの道筋を頭の中に描いて、それによって方向を判断するより外に方法はなかった。最早《もはや》暮れるに間もあるまいと思うが、時計を出して見る間も惜しく足にまかせて急いだ。尾根の上は黒木が繁っているので笹が少く、大《おおい》に歩きよかった。ある場所では明瞭に路が認められ、またある場所では焚火の跡などもあった。峠の道もさして遠くはないはずと急ぎに急いだが、一時間以上歩いてもまだそれらしきものにぶつからない。足もとはしだいに暗くなってたどたどしくなって来た。先へ行った藤島君が明るい所へ出ましたという。自分らは突然暗い黒木立の中から明るみへ抛《ほう》り出されたように感じた。木を伐《き》り払った跡である。日当りがよいので笹が人丈より高く延びている。のみならずその中には枯枝が縦横に交錯しているので明るくなって助かったと思ったのもつかの間、歩行は以前よりも遥に困難となった。その代りに下り一方である。ここは笹が深く燃料も豊富であるから、水はないが、携帯の食料で一夜を明すには相当の場所であった。しかし峠も近い事と信じていたので、なおも下りを続けてついに鞍部に達した。けれども峠の道はない。もしあっても暗くて探し出すのはむずかしい。午後三時頃から小歇《こやみ》となっていた雨がまた降り出して、風さえも加って来た。五時半頃である。前方右手の谷間に火の光が明るく雨や霧ににじんで見える。大方上州峠の途中にあるというお助小屋か、さもなくば鉄索運転の番小屋であろうと思う。遠くもないようであるが、到底そこまでは行かれない。一層のこと今夜はこのまま夜明しをしようではないかと無造作に話がまとまって、右手の落葉松《からまつ》を植林した斜面を少し下り、下草の多そうな処へ寄り懸るように腰を据えて、藤島君は防水マントを被り、自分は木の幹や枝でばりばりに裂けた蝙蝠傘《こうもりがさ》を翳《かざ》して、全く徹夜の準備が出来た。あとは夜の明けるのを待つばかりだ。その夜明けまでの長さ。
とうとう長い夜も明けた。見ると妙な場所に陣取っていたものだ。今一間も下ると二人楽に寝られるいい平があったのに。足もとの明るくなると同時に歩き出したが、気候も温く下着も充分に着てはいたものの、十一月の雨中に一夜を立ちつくしたのであるから、体がぎこちなく手足が敏活に動かぬ。尾根は登りとなって深い笹が足にからまり、横から突風に襲われると、二人ともややもすれば吹き倒されそうで容易に足が進まない。それで風下の右手の谷へ下りて、昨夜火光の見えた方向へ辿り行くことにし、そろそろ斜面を下った。午前八時である。間もなく小さい沢に出てそれを下ると、鞍部から四十分を費して本流との合流点に達した。本流の傾斜はかなり急で、時折瀑布に近い急湍をなして、険悪の相を呈することもあったが、瀑と称すべきものはなかった。ただ砂防工事を施した場所が二ヶ所あってこれが滝をなしている。それを下るのが困難であった。ことに下の方のものは手間が取れた。幾回となく徒渉したが、水は不思議にも冷くない。後で聞くとこれは赤岩沢というのだそうで、その名のごとく赭色の崩岩が河原にごろごろしていた。二時間近く下ると左岸の山腹に道らしきものが見え、暫くして河を横断して筧《かけひ》の懸るのをみた。そこから右岸のちょっとした坂を上るとたちまち眼前に人家が現れた。折よく人が来たので此処《ここ》は何処でしょうと聞くと、砥沢だと答えたので、銀山平方面のみ下りおることと信じていた自分らは開いた口が塞らぬほどに驚いたと同時に、不用意に目的地の砥沢へ出られたのを喜んだ。
後で考えると自分らは、地図の小径に従って千六百八十米の圏を有する峰の右側を迂廻し、鞍部に出るとその小径は不明となって、別に古い路跡が殆んど等高線に沿うて、尾根の右側をからんでいたのでそれにまぎれ込み、国境から発源している最初の沢を渡り、小沢に沿うてその北の尾根に上り、左に西南の方向を取って、地図の小径のすぐ北に在る千九百二十米の圏を有する峰(ネナ山、餅ヶ瀬の称呼)の頂上附近に達し、その時左に見えたものは即ち小径の在る尾根であったのを、袈裟丸山に続く国境尾根と誤り、右に国境尾根を南進したのを、反て北に向って進んだものと信じ、千九百五十七米の三角点(流小屋ノ頭、餅ヶ瀬の称呼)あるすぐ北の峰から真西に向って枝尾根を下りながらやはり真直ぐに進んでいると思ったのであった。上州側のこの辺は八林班であるから既に伐採が済んで、植林も終っていたのである。北風にしては温いと思ったのも道理、実は南風であったのだ。二度も殆んど直角に曲っておりながら、少しも気付かず直線に進行しているものと信じていることなどは、単に地図上で判断しては、到底了解されるものではない。
砥沢には宿屋はないが、飯場をしている吉田留吉という人の家で泊めてくれるとのことに、そこを尋ねて一泊頼むと快く応じてくれた。座敷に通ると火鉢や炬燵《こたつ》に火を山のように入れてもらって、濡れた物を乾しにかかった。身に着いていたもので濡れていないものは一つもなかった。風呂に入ってドテラに着換え、炬燵に寝ころんでやっと人心地がついた。二人とも著しく食慾が減退しているのに気が付く。昨夜ビスケットを少したべたまま、晩も朝も食わず、その上もう昼を過ぎている。それにもかかわらず膳に向って箸《はし》を取ると、汁の外は喉を通らぬ。やむなく生卵を二つばかり飲んで三食に代えた。よほど体に変調を来したものと見える。これで山登りが出来るかと心配になった。藤島君は若いだけに元気がよく、一、二杯は平げたようであった。
三時頃になって西の空が明るくなったと思うと、青空が現れて日がさして来た。ひまをみて帳場に行き、主人に皇海山のことを聞いた。よくは知らぬがこの先の不動沢から登れるそうだとのことで、伐採が入っているから路があるかも知れぬと附け足した。何にしても登れることは確かだ。それで乾し物に全力を注いだが、翌朝になっても全部乾燥しなかった。
十九日の朝も依然として食慾がない。辛くも一椀を挙げ、また干し物に手間取って出発したのは午前八時五十分であった。家の前を少し西に行き、右に折れて砥沢を渡り、坂を登り切ると尾根の上の少し平な所に出る。東北に黒木の繁った皇海山の姿が初めて近く望まれた。延間《えんま》峠の方へは一条の径とともに鉄索が通じている。その方面の山はことごとく伐り払われて、今不動沢が正に伐木の最中である。下りはかなり急であった。九時五十分不動沢着。沢の両岸には半永久的の小屋が散在している。小屋の前で働いていた老人にまた皇海のことを聞いてみた。その話によると、皇海山の西の鞍部から頂上へかけて切明けがある。そして平滝からその鞍部への道と通じているから其処《そこ》へ出て登れば楽である。まだ登っては見ぬが頂上には剣が奉納してあると聞いたと教えてくれた。地図と対照して実際の地形を視《み》ると、皇海山の西方から発源する不動沢の左股を遡《さかのぼ》るのが楽でもあり、かつ都合もよいように思われるので、それを登ることとして沢を渡り、道に沿うて最奥の小屋まで行き右に折れて林中を進むと左から来るかなりの沢に出た。十時半である。右下にもかなりの沢が流れている。それは右股でこれが左股に相違ないと断定して、十分ばかり休んでから沢を登り初めた。割合に歩きよい沢だ、十分も進むと河床は、縦横に裂目が入って柱状を呈している玄武岩らしき一枚岩となって、その上を水が瀉下するさまがやや奇観であった。十時五十五分、左から沢が来た。十一時二十分、また左から小さな沢が合した。振り返ると谷の空に遠く金字形の峰頭が浮んでいる。何山であるかその時は判然しなかったが、四阿山《あずまやさん》の頂上であることを後に知った。暫くして二丈ばかりの瀑があり、右から小沢が合している。瀑の左側をからみ、苦もなくこれを越えるとまた三丈ばかりの滝があった。それを上って一町も行くと、また左に一沢を分っている。其処から三町程度進むと流は尽きそうになって、ちょろちょろ水が岩間に湛えているに過ぎない。そこで昼飯にした。谷の眺望が少し開けて、雁坂から金峰に至る秩父山塊、浅間山、その前に矢筈山、その右に四阿山などが見えた。空が急に曇って西北の風が強く吹き出したと思うと、霰が降り間もなく雪がちらついてきた。動かずにいると手足がかじかむ程寒い。幸に雪は幾程もなく霽《は》れた。
水のない谷はいつの間にか山ひらに変っていた。下生えがないので歩きよい。黒木の林中は秩父あたりとよく似ている。しかし尾根の頂上近くには大分倒木があった。その中を潜り抜けて皇海山西方の鞍部に辿り着いたのが午後十二時四十分である。眼を上げると奥白根の雪に輝くドームが正面に聳え、左に錫と笠の二
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