山、右に山王帽子、太郎、真名子、男体の諸山が控え、笠と三ヶ峰との間には燧岳の双尖が天を劃している。果して平滝からの道はこの鞍部へ上って、更に東方へ延びている。この道をたどって行けば皇海山の北面にそそり立つ懸崖の下に出られそうであったが、時間が惜しいので自分らは行って見なかった。
切明けは幅九尺以上もあって、鞍部からは皇海山の西峰へ一直線に続いている。急傾斜の上に霜柱が頽《くず》れて滑るために、邪魔はないがやはり時間はかかる。わずかに三百米足らずの登りに五十五分を費し、一時三十五分皇海山の西峰に達した。西峰とはいうものの正しくは頂上西端の一隆起に過ぎないのである。黒木が繁っているので眺望はない。切明けは頂上直下で終って、それからは踏まれた路跡がある。東に向って少し下ったかと思うとまた上りとなって、二時絶頂の三角点に着いた。この間に一隆起があったように思うが、遠望には目立たぬようである。三角点の附近は木を伐り払ってあるので、四方の開豁なる眺望が得られる。南を望むと鋸山から鳶岩《とんびいわ》を連ぬる支山脈が近く脚下に横たわり、鳶岩の右の肩には上州峠の頂上にある鉄索の小屋まで見えている。次で根利山続き袈裟丸山の連脈が四つの峰頭をもたげ、千九百五十七米の三角点の櫓まで肉眼に映ずる。その右には赤城の黒檜《くろび》山が鈍いが著しく目に立つ金字形に聳え、右に曳いた斜線の上に鈴ヶ岳がぽつんと鮫《さめ》の歯をたてる。赤城と根利山との間には、小川山から大洞山に至る秩父の主山脈が、大海のはての蒼波かと怪しまれ、黒檜の上には白峰三山、赤石、悪沢等南アルプスの大立物が遥に雪の姿を輝し、黒檜と鈴ヶ岳との間に朝与、駒、鋸の諸山が押し黙って控えている。西から西北へかけて榛名《はるな》、妙義、浅間、矢筈(浅間隠)四阿の諸山は鮮かであるが、四阿山から右は嵐もようの雲が立ち騒いで、近い武尊山も前武尊の外は、頂上が隠れている。燧《ひうち》岳は既に雲中に没してしまったが、三ヶ峰、笠、錫の諸峰及日光火山群や、渡良瀬川対岸の夕日ヶ岳、地蔵岳、横根山などは、雲間を洩る西日を浴びて半面が明かに見渡された。奥白根はかなり雪が白く、峰頭をかすめて雲が去来する毎に、研《と》ぎ澄した鏡のように光る雪面が曇ったり輝いたりする。庚申山の如きはいわゆる俯してその髻《もとどり》をとるべしという形だ。庚申講の先達がこの山を開いて奥院とした訳がなるほどと肯《うなず》かれる。脚の下から北に走る国境山脈は、三俣山(千九百八十米、上州方面の称呼である。支脈東に延びて黒松岳、社山等を起し、中禅寺湖の南を限る。)でも宿堂房山でも、黒木の繁っているのはよいとしても、その間は一面の笹であるには驚いた。秩父の雲取山から金峰山に行く位の積りで、袈裟丸山から奧白根まで縦走して見ようかと思ったが、この笹ですっかり辟易《へきえき》してしまった。
二時半に三角点を辞して、少し東に下ると例の剣が建ててある。国境はそれよりも更に東寄りで、東北に向った切明の跡は密生した若木に閉され、殆んど足の踏み入れようもない。南に向うものは疎《まば》らな笹の中を下るので、甚しく邪魔されるようなことはなかった。下り切るとやや深い笹を分けて二つの隆起を踰《こ》えた。三時三十五分である。二つ目の隆起は、字クワノキ平の標木があった。食慾減退の祟《たた》りがそろそろ現れて来たようだ。前に高く屹立《きつりつ》した鋸山の最高点へは登らずに済むかと思ったが、どうも登らずには通れぬらしい。この登りは恐ろしく急で手足を働かさなければならなかった。赭色の岩壁が段をなして連っている。拗《ねじ》けくねった木がその間に根を張り枝を拡げて、逆茂木《さかもぎ》にも似ているが、それがなければ到底《とて》も登れぬ場所がある。岩壁や木の根には諸所に氷柱《つらら》が下っていた。雨の名残りの雫《しずく》が凍ったものであろう。水がないので困っていた二人は、これで幾分渇をしのぐことを得た。最高点に登りついたのは四時十五分である。字サクナソリと書いた標木が立っている。ここは非常に眺望がよい、谷間はもう薄暗くなったが、連山は模糊《もこ》として、紫や紫紺の肌に夕ばえの色がはえている。それよりも美しかったのは入日に照らされた雲の色であった。自分らは暗くなるのを気遣いながらも、三十分ばかり遊んでしまった。
鋸山を西に下ってまた上ると、字トンビ岩の杭ある峰の頂に出る。この山から国境山脈はぐっと南に曲るので、西に続く支脈にまぎれ込むことを心配したが、幸に切明けの跡を探り当てて、深い笹の中を迷いもせず下ることが出来た。もう全く暗い、二人で声をかけながら歩いても、ややもすれば互にそれてしまう。六時頃峠の上の鉄索の小屋についた。それに沿うて西に下ると峠の路に出る。十町ばかり下に電燈の火光が散点している。六林班の鉄索運転所であろう。六時二十分そこにたどり着き、事務所に行って事情を話すと、主任の人が心配してくれて、泊れる小屋を探しに小使をやった。幸に今朝二人里へ行ったという小屋があって、そこへ泊ることになった。事務所の浴室へ案内されて湯に入った。その湯の豊富で綺麗なのには全く驚いた。蒸気機関があり川があるから、湯でも水でも栓をひねればすぐ浴槽にあふれるほど湛える。これだけは実に贅沢《ぜいたく》だと思った。
二十日の朝はきわめて快晴で、外は霜が雪のように白い。硝子《ガラス》窓を透していながら左は浅間から右は谷川岳附近まで望まれる。苗場も見えた。ことに仙ノ倉が立派であった。昨日降った新雪が折からさし登る朝日の光に燃えて、薔薇色《ばらいろ》に輝いた。午前八時半に小屋を立ち、三十分で峠に達し、雪の連山に最後の一瞥《いちべつ》を与えて、東に向って銀山平への道を下りはじめた。鋸山方面から流れ出る沢には滝が多い。庚申川に沿うた紅葉は、さほど盛りを過ぎてもいなかった。谷川の趣《おもむき》も捨てたものではない。十二時銀山平、午後一時二十分原向。それから二時二十六分の汽車に乗り、五時相老で東武線に乗換えたが、途中故障が生じて、十時頃ようやく浅草駅に帰着した。
底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年9月17日第1刷発行
2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 一六の三」
1923(大正12)年5月
初出:「山岳 一六の三」
1923(大正12)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月3日作成
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